溺愛音感
「……どうして、ピアニストにならなかったのかな」
思わず呟いてから、はっとした。
「あ、ご、ごめんなさいっ、あの、べつに深い意味はなくてっ」
雪柳さんから聞いた話を思い出し、慌てて言い繕う。
マキくんが若くして社長になったのは、マキくんのお父さん――松太郎さんの息子さんが理由なら、松太郎さんも何かしら思うところがあるはずだった。
「いや、いいんだよ。ハナちゃん。もっと息子がしっかりしていれば、柾も本音を口にできただろうとわしも思っている。柾が結婚に尻込みしていたのも、バカ息子のせいだ」
松太郎さんは、苦い表情で溜息を吐く。
「あの……マキくんが結婚したがらなかったのって、バカ息……えっと、マキくんのご両親が離婚した、から?」
「離婚自体ではなく、離婚の理由が原因だろう。身内の恥をさらすと、柾の父親は浮気者でな。相手をとっかえひっかえして、不倫をしとったんだが……ついには、社内の人間にまで手を出した。さすがにもう目をつぶるのは限界だった。だから、わしが役員会に社長の解任を持ち掛けて、柾に跡を継がせたんだよ」
(そっか……。お父さんのことがあったから、マキくんは絶対に社員には手を出さないって、雪柳さんは言ってたんだ……)
「柾は、すっかり父親を軽蔑しとる。父親に代わって、自分が家族と会社を守らなければとずっと思っていたんだろう。だから、大学では経営学を勉強し、卒業後も寄り道することなく『KOKONOE』に入社した。柾の口から、やりたいことや夢の話を聞いたことはなかった。だが……」
「マキくん……ピアニストになりたかったんだと思いますか?」
「わからん。ただ……大学入学と同時に柾は家を出たんだが、部屋を片付けた志摩子さんから、ゴミだから捨てていいと言われたものの中に音大の資料があったと聞いた」