溺愛音感
「あのっ!」
勢いよく振り返ったわたしが、よほど切羽詰まった表情をしていたのだろう。
三輪さんと友野先生は毒舌の応酬をピタリとやめた。
「何かな? ハナちゃん」
「あの、このひと……三輪さんのお弟子さんですか?」
三輪さんはわたしの隣に立って写真を見つめ、なぜか表情を曇らせた。
「……ああ、久木くんか」
「あのう……」
「久木くんは、三輪先生の弟子じゃないよ。師事していたのは別の先生だ。ただ、その先生が一時期体調を崩してね。彼の友人の三輪先生と俺で、半年ほど代わりに個人レッスンしてあげてたんだ。律義な子で、大学を卒業するときもわざわざお礼を言いに来てくれてね。留学するんだって、嬉しそうに話していたんだけど……」
三輪さんに代わって説明してくれた友野先生は言葉を切り、小さな溜息を吐いた。
「留学すれば、一流の演奏家になれるというものでもないし、プロになれるわけでもない」
「あの、それって……」
「もし、彼女が留学して、ソリストになる夢を追いかけるつもりだと知っていたら、反対したんだけどね」
どうして反対だったのか。
答えが、わかりすぎるほどわかっていたから、訊けなかった。
「彼女、ディプロマは取得できたけれど、エージェントに登録してもほとんど声が掛かることはなかったみたいだね。オケのオーディションもなかなか通らず、通っても試用期間が終わるとそれきり。エキストラとか、ホテルやバーでの演奏をしながら、コンクールに応募したり、あらゆることをして……それでも、努力が報われることはなかった。日本へ帰るという選択肢もあったはずだけれど、諦めきれなかったんだろうなぁ。結局、」
ヴァイオリンを弾くのをやめてしまった。
そう続くだろうと予想していた耳に飛び込んで来たのは、まったくちがう結末だった。
「夢を叶えられないまま、亡くなったよ」
「え……?」
「過労から来る、心臓発作だったらしい」
「…………」
「つい最近のことで……」
「友人も責任を感じてしまってね……」
「同窓生たちが追悼の演奏会を開いたりして……」
三輪さんと友野先生は話し続けていたが、茫然とするあまり、聞こえてはいても理解できなかった。
「……ハナちゃん?」
名前を呼ばれ、ようやく我に返った。
「は、はい」
「もしかして、知り合いだった?」
「え……いえ……あの、ただ……最近、知人のところで見せてもらったDVDに彼女が映っていて……それで……」
「なるほど……そうか。彼女の演奏だったのか」
三輪さんは納得がいったと言うように何度も頷き、まっすぐわたしを見つめる。
「亡くなったことはとても残念だし、気の毒だと思う。でも……やっぱり彼女のヴァイオリンに対する、僕の評価は変わらない。ただね……」
静かに、しかし断固とした口調できっぱり言い切った三輪さんは、険しくしていた表情を和らげた。
「プロとして順風満帆の活躍をしていても、いつそれがダメになるかはわからない。だから、ハナちゃん。弾くチャンスがあるなら逃してはいけないんだ。弾ける場所が与えられているならば、どこであろうと大事にして、自分の持てるすべてで弾かなくてはいけない。それは、どんな演奏家にも言えることだと思うんだ。ハナちゃんは、誰よりもそのことをよくわかっているはずだよ」