溺愛音感
棚にずらりと並ぶCDの中から、次に取り掛かろうと思っている曲、イザイの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』のアルバムを取り出した。
全六曲の中、コンクールの課題曲など、演奏される機会が多い三番を選んでソファーに身体を沈めて目を伏せる。
二十世紀に活躍したヴァイオリニストの演奏は、録音が古く、音質は現代のものに比べれば雲泥の差だ。
しかし、何度聴いても、また聴きたいと思うし、聴くたびに魅了される。
耳を奪われる。
インターネット上にアップロードされた動画で見た彼女――『久木 瑠夏』の演奏とは、ちがって。
ネット上にアップされていた動画は、彼女が大学生の時に入賞を果たしたコンクールでの演奏らしかった。
技術は申し分なく、完璧な演奏。
文句なしに、巧かった。
点数をつけるなら、百点満点だ。
でも、百点「以上」ではなかった。
いい音楽も悪い音楽もない。
上手も下手もない。
すばらしいかどうかは、誰が決めるのでもなく、「自分」の心に響くかどうかで決めればいい。
父にはそう言われて育ち、いまでもその言葉を信じている。
『久木 瑠夏』の弾くイザイは、わたしの心には響かなかった。