溺愛音感
ハナ、看病する
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古びた教会を見上げる墓地の片隅に、ひっそりと佇むシンプルな四角い墓標。
そこに刻まれた名前は、父のものだ。
いつの日か、誰かが供えてくれたのであろう薔薇は、色を失い、花びらを散らし、無残に枯れた姿をさらしている。
震える息。
快晴なのに、濡れている頬。
きつく抱きしめたヴァイオリンケースのゴツゴツした固さだけが、確かなもの。
蹲るわたしの背に、誰かが触れた。
振り返り、ふわりと抱きしめられ、ぬくもりに包まれる。
夢を、見ていた。
だから、次の瞬間、いきなり別のシーンへ放り出されても、驚かなかった。
生活感のまるでない部屋のガランとしたダイニング。
目の前には、湯気の立つカップ。
たっぷり入っているのは、オニオンスープだ。
凪いだ水面に一滴のしずくが落ち、波が立つ。
それを合図に、再び別のシーンへ飛んだ。
ヴァイオリンを弾いているのは、青白い顔をしたわたし。
弦が切れているのに、やめようとしない。
音のない夢では確かめられないが、きっと悲鳴のような音を鳴らしている。
やめて、と言おうとしたとき、視界を誰かの腕が横切った。
弓を握りしめる手を押さえ、長い指でそっとわたしの顎をヴァイオリンから引き剥がす。
澄んだアンバーの瞳に覗き込まれ、ハッとした時、再びシーンが変わった。
今度は、ゆらゆら揺れるロッキングチェアの上、誰かに抱かれたまま、ぼんやりと月を見上げている。
止めどなく流れ落ちるものが頬を濡らし、大きくて、温かい手がそれを拭っている。
話しかけられているようだけれど、何を言われているのかわからない。
ただ、なぜか『ハナ』と呼ばれていることだけはわかった。
それからも、目まぐるしく色んなシーンが現れては消えた。
柔らかなベッドの上、青いタイルの敷き詰められたバスルーム、大きなソファー。
どのシーンでも、優しい手とぬくもりが傍にある。
大きな窓から見上げる空の変化が、わたしの心の変化を教えていた。
暗い空の色が少しずつ明るくなって、重く垂れこめた雲には僅かな亀裂が入っている。
柔らかな光が差し込む窓を背に立つ人の姿は、逆光で黒い影になり、顔がわからない。
唐突に、わたしを呼ぶ声がはっきり聞こえた。
『ハナ』
耳に馴染んだ声にほっとし、広げられた腕に飛び込もうとして……目が覚めた。