溺愛音感
そんな約束をした記憶は、ない。
いろんな人と出会い、別れることを繰り返していたから、彼女と会話をしたことさえ、憶えていなかった。
「リクエストついでに、瑠夏が冗談交じりに言ったんだ。ハナがプロになって、日本で演奏することになったら、立派なコンサートホールを用意する、と」
「それって……」
「実際に、ホールを用意するのは俺の役目だったが」
「…………」
「あの時……瑠夏のアパートで、そのことも話して聞かせた。ハナは、絶対にまた弾けるようになって、瑠夏の好きだった曲を『KOKONOEホール』で演奏すると約束してくれた」
「わ、たし……そんなこと言ったの? それなのに……憶えて、なくて……」
自分のいい加減な約束が、マキくんにいらぬ期待を抱かせ、さらに辛い思いをさせてしまったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
しかし、青ざめるわたしに、マキくんは「憶えていなくてもいいんだ」と微笑んだ。
「あの時ハナがそう言ってくれて、嬉しかった。ハナが、もう一度、大勢の聴衆の前で弾きたいと思うきっかけになるなら、瑠夏も喜ぶと思った」
「でもっ……わたし、弾けないままで……」
「もし、あのままハナが弾けるようになっていたら、こうして会うことはなかったかもしれない」
「え?」
マキくんは、わたしの額にかかる前髪を優しく払い、鼻の頭にキスを落とした。
「当初、日本に帰国したら、すぐにハナの様子を見に行くつもりだった。だが、記憶を失くしているようだとメーガンから聞いて、やめたんだ。忘れたほうが、新しい生活を始めやすいと思って。ただ、直接会うのはやめたが、ハナのことはずっと見ていた。弾けるようになったら、真っ先に『KOKONOEホール』でのコンサートを打診するつもりでいたんだ」
「見て、た……?」
「伝手を使って、様子を把握していた。日本での生活に慣れ、相馬和樹のことも乗り越えれば、そのうちヴァイオリンを弾く姿を見られるだろうと思っていた。だが……一年経っても、ハナがヴァイオリンを弾く姿は見られなかったし、聴くこともなかった」
「…………」
「このままでは、ハナが弾くのを諦めてしまうかもしれないと危惧し始めた矢先、タイミングよく見合いの話が舞い込んで来たんだ。ハナが弾けるようになるために、俺にできることがあるなら、何でもしてやりたいと思った」
「どう、して……? どうして、そこまで……」
わたしは、マキくんにとって、恋人でもなければ友人でもなかったのに。
さんざんお世話になっておきながら、彼のことを記憶すらしていなかったのに。
どうやってお返しすればいいのかわからないくらい、マキくんはわたしにたくさんのものを与えてくれた。
マキくんは、単純な理由だと笑った。
「どうして? そんなの、ハナのヴァイオリンが好きだからに決まっている。初めて聴いた時から、ハナのヴァイオリンの音が耳を離れないんだ」