溺愛音感
マキくんは、その場では何も言わなかったが、駐車場に停めていた車に乗るなり、口を開いた。
「ハナ。さっき、三輪さんが言っていた返事とは、何のことだ?」
一瞬、黙っておこうかと思ったけれど、三輪さんがマキくんに先に話している可能性を考え、正直に打ち明けた。
「えっと……コンクール……に、応募してみないかって言われた」
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三輪さんの予想外の提案には、正直驚いた。
『来月末に応募を締め切る国際コンクールがあるんだよ。いわゆる大人の事情ってものが反映されにくいと言われているコンクールだし、選考スタイルもユニークだし。ハナちゃんにオススメなんだけど……』
三輪さんオススメのコンクールは、そういう事情に疎いわたしでも知っているほど超有名なものだった。
DVD審査と二回の予選を通過したファイナリストたちは、一週間外界との接触を断ち、合宿スタイルで「新曲」を弾きこなさなくてはならないという一風変わった選考方法を採る。
幾人もの一流の音楽家が入賞を果たしていて、権威あるコンクールとして認知されていた。
『コンクールで入賞したからと言って、その後音楽家として成功できるとは限らないし、落選したらかえって評判を落とすリスクがある。無冠で演奏活動を続けるほうが賢明かもしれない。けれど……いまのハナちゃんには必要な過程なんじゃないかな、と思うんだよね』
コンクールは、ひとつのモノサシだ。
自分の精一杯の演奏に対する評価がはっきり示されたら、目指すものもはっきりするかもしれない。
三輪さんの言葉は、ストンと胸に落ちた。
経歴が「異色」だから売れるのだと言われるのが、辛く、悔しかった。
生まれ育った環境のこと、高名な師を持たないこと、コンクールでの「評価」がないこと――。
あちら側の住人になるには足りないものだらけで、だからダメなのだと否定され、何も言えなかった。
コンクールに挑戦するなんて、いまさらと言われるかもしれない。
が、いまだから挑戦できる、とも思う。
公演の予定も、CDを発売する予定もない。
まったく演奏活動を停止しているいまなら、失敗しても、迷惑をかける相手は誰もいないのだ。
これ以上、落ちようのないところまで落ちているから、コンクールで門前払いを食らったとしても、失うものは何もない。
傷つくのは、あるかどうかも怪しいわたしのちっぽけなプライドだけだ。
しかも、三輪さんは、課題曲のレッスンはもちろんのこと、日本ではなく現地でレッスンを受けたほうがいいとなれば、コンクール事情に詳しい知り合いを紹介してくれると言う。
とてもありがたいお話だけれど即答はできなくて、来週まで返事を待ってもらうことにした。