溺愛音感
中盤までは、情感たっぷりに。
そこから先は、緩急、強弱、繊細さと大胆さが入り交じり。
弾いているうちに、楽しく、踊りたい気分になってくる。
限界までテンポを上げ、弾き切って弓を上げた瞬間、思いがけない大きさで拍手が聞こえた。
(え……)
気がつけば、二十人近くの人が聴いてくれていた。
ヴァイオリンケースには、銀色の硬貨がいくつか入っている。
立ち去る人たちにペコペコと頭を下げ、最後の一人、和樹と向き合う。
和樹は、わたしと目が合うとふわりと笑った。
「十ユーロじゃ、安すぎだな。コーヒーでも、奢らせて?」
その言葉も、あの日と同じだった。
(わたし……憶えている)
和樹のことは、何もかも忘れようと思った。
日本へ来てからは、ホールで彼の姿を見るまで、出会った日のことなんて思い出しもしなかった。
でも、忘れたのではなく、記憶に蓋をしただけだった。
誘いを断り、立ち去ることもできる。
けれど、いまなら冷静に話せる気がした。
いま、話すべきだと思った。
だから、あの日と同じ言葉を返した。
「コーヒーだけじゃなくて、ケーキも付けてくれる?」
和樹はハッとしたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべ、やはり聞き覚えのある言葉を口にした。
「いいよ。好きなだけ頼めばいい」