溺愛音感
ハナ、前を向く①
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駅前のカフェ。
閉店までは、まだ三時間くらいの猶予があるけれど、注文カウンターのショーケースは空っぽだった。
「あのぅ、ケーキとか、マフィンとか……もうないんですか?」
諦めきれずに訊ねたが、店員は申し訳なさそうな表情で本日分のスイーツは売り切れだと答える。
「別の店にするか?」
「ううん、いいよ。このクッキーで」
後ろにいた和樹に訊ねられ、首を振ってレジ横の小さな籠に入っていたチョコチップクッキーを取り上げた。
ケーキを食べられないのは残念だが、探し回ってまでどうしても! というほどではない。
「これとソイラテ。ホット、ショートで」
「俺も同じものを」
お財布を出そうとしたら、背後から伸びて来た手がショップのプリペイドカードを差し出す。
「ちょっ……」
必要ない、と言おうとして振り返ったら、苦笑された。
「奢るって言っただろ?」
(あ……そうだった)
「えっと……ごちそうさま」
「どういたしまして。俺が持って行くから、ハナはこれ持って先に席へ行って」
「うん」
彼のヴァイオリンケースを預かり、店内を見渡す。
出入り口から少し奥まった場所、窓際の二人掛けのテーブルが空いていた。
椅子に腰を下ろし、何となく落ち着かずにキョロキョロし、カウンターでソイラテの出来上がりを待つ和樹の後ろ姿を見て、首を捻った。
髪型も、体型も、わたしが知っているかつての彼とさして変わらない。
スーツ姿だって、見慣れている。
でも、どことはっきりは言えないけれど、何かがちがう気がする。
(うーん……何が変わったのかな? 表情? 雰囲気?)
考え込んでいるうちに、ソイラテとクッキーを載せたトレイを持った和樹がやって来た。
向かいの席に腰を下ろしかけ、「あ」と声を上げる。
「砂糖、いるんだったよな?」
「いらない」
「いらない? 好みが変わったのか?」
「え? や、そういうわけじゃ……ないけど」
昔――と言っても和樹と付き合っていた一年前までは、コーヒーや紅茶に砂糖は必須だった。
しかし。
おせんべいに出会い、緑茶が好きになってからは、飲み物に砂糖を入れないのが普通になっていた。
「一年も経てば、いろいろ変わって当然か……」
「そう、だね」
それきり会話は途切れ、互いに無言でソイラテを啜る。
何をどうやって切り出せばいいのか。
考えがまとまらないうちに、三個入りのクッキーを勢いよく平らげてしまう。
間を持たせることができなくなり、空になったパッケージを恨めしい気持ちで睨んでいたら、和樹が口を開いた。
「動画を見てはいたものの、今夜この耳で聴くまでは、半信半疑だった。本当に、弾けるようになったんだな」
「う、うん。ここ最近のことだけど……」
「……よかった」
ぽつりと呟かれた言葉。
それは、嘘や社交辞令なんかではなく、彼の本心だと思った。