溺愛音感
「怖かったんだ」
和樹は、強張った表情で、当時の気持ちを口にした。
「……怖かった?」
意外な言葉に、目を見開く。
わたしの知る彼は、いつも自信たっぷりで、何かに怖気づくところなんて見たことがなかった。
巨匠と呼ばれる音楽家とさえ、萎縮することなく、堂々と渡り合っていた。
「自分のせいでハナの才能を潰してしまったかもしれない、取り返しのつかないことをしてしまったかもしれないと思うと、怖くて、逃げ出したくなった」
「…………」
「ハナのことを大切にすると言った自分こそが、ハナを苦しめていることに耐えられなかったんだ。一時でもいいから、何もかも忘れてしまいたくて、酔った勢いに任せて、誘われるままに同僚と寝た。いまさら言い訳にしかならないが、彼女とは身体だけの関係だった。あの日以降、会うことも、連絡を取り合うこともしていない」
一年前。
浮気現場を見た直後だったなら、何を言われようと信じられなかっただろう。
しかし、いまはちゃんと冷静に受け止められる。
「ずっと……浮気してたわけじゃ、ないの……?」
「関係があったのは、半年くらいだ。俺もむこうも本気ではなかったから、約束などせず、お互い都合のいい時に会うだけだった。こんなことを言っても信じてはもらえないと思うが……裏切っておきながら、俺はハナと別れることは、まったく考えていなかった」
「ほ、んとうに? だって……結婚を先延ばしにするようなことしか言わなかったのに」
自分との結婚を前向きに考えていたとは思えない彼の言動を振り返り、つい疑ってしまう。
和樹は、力ない笑みを浮かべて首を横に振った。
「引退して、俺と結婚してしまえばいいと何度も言いそうになった。俺は、ハナを一流のヴァイオリニストにしたいと思っていたけれど、ハナを苦しめたかったわけじゃない。でも、あの時ハナが望んでいたのは、俺との未来ではなくて、ヴァイオリンを弾く未来だった。それがわかっていながら、諦めろなんて言えなかった」
「…………」
「ハナの代理だという弁護士にも、ハナに直接謝罪させてほしい、やり直したいと言った。でも、ハナはもうあの街にいないし、連絡先を教えることもできない。もし、強引に近づくような真似をしたら訴えると言われて、それ以上食い下がれなかった」
和樹が、すんなり別れを受け入れたわけではないと知って、驚いた。
てっきり、わたしと関わらずに済むようになったことをあっさり受け入れたのだと思っていたのだ。
「あれからすぐに、音羽さんが迎えに来てくれて、一緒に日本に来たから……」
「ああ。二度とハナに会うチャンスはないと諦めかけていたところに、『女帝』が娘と暮らしていると知り合いから聞いた。だから、俺も帰国を決めたんだ。ちょうど、家の事情で帰国を急かされてもいたし、同じ日本にいれば、いつか、どこかでハナに会えるかもしれないと思って」
「…………」
「許してほしいなんて、贅沢は言わない。ただ、会って、謝りたかった。」