溺愛音感

どん底にいた時に裏切られた痛みと苦しみを思えば、許す気になんてなれない。
でも、わたしと同じくらい、彼も苦しんでいたのだと聞いて、一方的に責めることもできなかった。

いまの気持ちをどう言い表せばいいのかわからずに、取り敢えず気になった言葉尻を捕らえて、問い返す。


「家の、事情って?」

「いま、俺が駅前の音楽教室で講師をしていることは知っているだろう?」

「うん。名刺、貰ったし」

「あれは本業ではなくて、副業のようなものなんだ。コネで、やらせてもらっている」

「コネ?」

「教室の母体になっている音楽関連会社を興したのは、母方の祖父で、数年前に引退したが、婿養子に入った父親が二代目だ。いまは、兄が三代目として経営を引き継いでいる」


初めて聞く事実に、改めて自分と彼の関係の歪さを実感した。

兄がいたことはもちろん、彼の家族のことなど何も知らなかった。
四六時中、それこそ朝から晩まで一緒にいたのに、彼のことを何も知らず、知りたいとさえ、思っていなかった。

彼が与えてくれるものを受け取るだけで、彼のために何ができるのかなんて考えてもみなかった。

和樹と出会ってから別れるまで、ヴァイオリニストとしての基盤を築くこと――自分のことだけで、手一杯だった。


「俺は次男だから、比較的自由に生きることを許されていた。だから、海外でエージェントの仕事をすることもできたんだ。ただし、何かあれば帰国して、兄のサポートをするという条件付きで。昨年、兄が体調を崩して呼び戻され、なし崩しで辞められなくなった」


エージェントの仕事は、自分の天職だと言っていた和樹だ。
家族のためとは言え、好きな仕事を諦めるのは辛かったにちがいない。

思えば、彼の悩みを聞いた記憶は一切なかった。
いつだって、わたしが彼を頼るばかりだった。


「わたし……本当に、和樹のこと何も知らない……ううん、知ろうとしていなかったんだね」


和樹は、ちょっと驚いたような表情をし、苦笑いした。


「知らなくて当たり前だ。俺が話そうとしなかったんだから。それに……たぶん、訊かれても適当にはぐらかしただろうな。ハナの前では、自分の思うように生きている、カッコいい大人の男でいたかったから」

「え?」

「でも、本当の俺は、嫉妬や独占欲にまみれた、卑怯で器の小さい男だ」


自嘲する和樹なんて初めて見る。

唖然とするわたしに、彼はくしゃりと髪をかき上げて、ソイラテを呷り、一気に言葉を吐き出した。


「俺は、幼い頃からずっと、ヴァイオリンを弾くことだけに時間を費やしてきた。高校も、大学も、専科を出て、留学もした。日本では、何度もコンクールで入賞していたし、それなりに自信があった。でも……留学して、自分なんかは足元にも及ばない才能を持つ人間がゴロゴロ転がっているという現実にぶち当たって、心が折れた。才能があっても、一流のプレーヤーとして活躍できるのはほんのひと握りだ。自分はそのひと握りにはなれないと思い知って、弾くのをやめたんだ」


それは、つい最近知ったある人の話と、とてもよく似ていた。


「もちろん、ソリストになれなくとも、ヴァイオリンを弾き続ける道はある。でも、中途半端に続けるより、いっそ別の形で音楽に関われないかと考えて、留学中に方向転換したんだ」

「和樹がヴァイオリンを弾くなんて知らなかったから……講師をしているって聞いて、驚いた」

「ハナと出会った頃は、弾かなくなって何年も経っていたし、きっぱり諦めるために楽器も手元には置いていなかったから。自分では、ヴァイオリンにもう未練はないと思っていたんだ。でも、本当は……心の奥底で、ハナに嫉妬していたんだろうな」

「嫉妬? わたしに?」


俄かには信じられなかったが、和樹は真面目な表情で頷いた。


「俺は、自分では叶えられなかった昔の夢を、ハナで叶えようとしたんだ」


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