溺愛音感
「そうだな」
和樹は「はぁ」と大きな溜息を吐き、気持ちを切り替えるように屈託ない笑みと共に、身を乗り出した。
「ハナの演奏を聴いて、またスカウトしたくなったよ」
「は?」
「初めてハナのヴァイオリンを聴いた時、人の気持ちに寄り添う、優しい音だと思った。だから、多くの人に聴いてほしかった。自分と同じように、ハナの音楽に癒される人がたくさんいるにちがいないと思ったんだ。今夜も、あの時と同じ気持ちを抱いたよ」
「そんなの……買い被りだよ」
「買い被りなんかじゃない。話題性や俺の力だけで、歴史あるオケや巨匠と呼ばれる指揮者との共演が叶うほど、甘い世界じゃないのはわかってるだろう? くだらない慣習や先入観を持たない、本当に一流のオケや指揮者は、ハナと共演したあと、次の機会を楽しみにしていると言っていたよ。辛辣な意見ほど耳に残るが、その何十倍、何百倍もの賞賛が寄せられていたのは、事実なんだ。だから、自信を持っていい」
熱っぽく語る和樹は、出会ったばかりの頃の彼を思い出させ、冷えて小さく固くなっていたわたしの心を揺さぶる。
「ハナのヴァイオリンのファンとして、俺にできることがあるのなら、何だってする。その気持ちは、出会った時から、ずっと変わらない。もう一度、コンサートホールでハナのヴァイオリンを聴きたい」
いまさら、和樹に何かしてほしいとは思っていない。
実際、彼の力を借りなくてはいけないこともないと思う。
けれど、いまでも一ファンとして、わたしのヴァイオリンを聴きたいと言ってくれる気持ちが、嬉しかった。
路上で出会ってから、彼と過ごした日々がスライドのように脳裏に次々と映し出される。
振り返って見れば、苦しく、辛かった最後の一年を含め、どの一日が欠けても、いまのわたしには繋がらないのだと思った。
彼と出会い、別れなければ、日本で暮らすことはなく、いまわたしの周りにいてくれる人たちにも出会えなかった。
(マキくんとも……出会うことはなかったんだろうな)
いまでは、心の中の大半を占めている存在を思うと、この道を進んでよかったのだという気持ちになる。
失う辛さや悲しみを知らなければ、彼の哀しみに、寄り添いたいと思わなかっただろう。
弾けずにいた「あの曲」も、弾けないままだったかもしれない。
必要な出会いがあるように、必要な別れもある。
そう思えるようになった自分は、確かに前を向いているのだと思った。
いろんな思いを表すのに相応しい言葉は、たったひとつしか思い浮かばなかった。
「……ありがとう」
口にしたら、自然と笑みが浮かんだ。