溺愛音感
「……ハナには、参るよ」
和樹は、前のめりになっていた身体を椅子の背もたれに預けて天を仰いだ。
「え? なんで?」
「浮気した元婚約者に礼を言うなんてあり得ないだろ。ソイラテをぶちまけても許される立場だ」
「こんなに美味しいのに、そんな勿体ないことできないよ」
「だったら、平手打ちをするとか?」
「手を痛めるようなことしちゃダメだって、口を酸っぱくして言ってたのは、和樹でしょ」
「じゃあ、脛を蹴り上げるとか?」
「マゾなの?」
「ハナになら、何をされてもいいと思っている」
「そういう人には、何もしないのが一番の罰になるから、何もしない」
「確かに」
顔を見合わせ、二人同時に噴き出す。
懐かしいやり取りに、一瞬、あんなことはなかったんじゃないかと錯覚しそうになったが、和樹の呟きで現実に引き戻された。
「どうしてあんな馬鹿なことをしたんだろうな、俺は。ハナのことが、何よりも大切だったのに」
後悔の滲む声音に、ドキリとした。
でも、カップに添えられた大きな手に光る指輪が、グラつきかけた気持ちを瞬時に正してくれた。
「結婚しているくせに、そういうことは言わないほうがいいんじゃない? きれいな人だね、奥さん」
コンサートホールで見かけた女性を思い浮かべて言い返すと、和樹は顔をしかめた。
「いつ、見たんだよ?」
「四月に。コンサートホールで」
「え? ハナ、まさかあの夜、『KOKONOEホール』にいたのかっ!?」
「うん」
「そうか……だから……」
和樹は何か納得した様子でぶつぶつ呟いていたが、じっと見つめるわたしに気づいて苦笑いした。
「彼女とは、仕事がらみで結婚したんだ。いわゆる政略結婚というやつだよ。こっちの家の都合とあっちの家の都合だ」
「お見合いでも仲良さそうだったけど?」
彼が結婚しているという事実を確かめても、たいしてショックを受けなかった。
(あの時は、すっごくショックだったのに……こんなに簡単に、吹っ切れるものなの? 見合いだって言うから? それとも……)
「一緒に生活するなら、波風は立てないほうがやりやすいだろ? 対外的には仲のいい夫婦を演じているが、むこうには結婚する前から続いている恋人が何人かいるよ」
「えっ? そ、それって……それって、不倫ってこと? しかも、ふ、複数って……」
思いもよらぬ話に動揺を隠せない。
「チヤホヤされないと気が済まない性格なんだよ。でも、毎日のようにご機嫌伺いをするなんて、疲れるだろ? だから、その役目を担ってくれる男たちには、感謝してるんだ。こっちのプライベートにも干渉されずに済むし」
「そういう……もの、なの?」
「誰もが、相思相愛の恋愛結婚ができるわけじゃない。ハナのした見合いは、例外中の例外だよ」
そんな結婚に意味があるとは思えないが、お金持ちには複雑な事情があるのだろうと納得しかけ、ハッとした。
(ん? なんでわたしがマキくんと見合いしたこと知ってるの?)