溺愛音感
母の指摘は痛い所を突いていた。
榊 絆杏、二十五歳。
学歴も、職歴も、資格も……カレシも婚約者も、候補含めて一切ナシ。
いくつか外国語を話せるけれど、母の故郷である日本へやって来たのはつい最近。
そのため、日本語の読み書きはひらがなとカタカナがやっと。
漢字は見るだけで頭痛がする。
ちなみに、IT系も苦手。
スマホはかろうじて使えるが、パソコンのキーボードは一本指入力がやっと。
ワードもエクセルもパワポも使ったことがない。
そんなわたしが大金を稼げるわけもなく、ティッシュ配りや深夜の棚卸し、清掃などをかけ持ちしつつ、貯金を切り崩して生活しているのが現状だ。
一年ほど前に失業し、住む場所も失った。
唯一の肉親である母のいる日本へやって来たが、彼女は年下のパートナーと暮らしている。
お邪魔虫にはなりたくないから、三か月ほどお世話になった後、家賃が安いアパートを探して引っ越した。
時々、ほかの部屋にジャパニーズマフィアらしき人たちがやってきて、何やら喚くこともあるけれど、彼らは目的の部屋以外には何もしない礼儀正しい人たちで。
ここは「日本」だから、いきなり一般人が銃で撃たれるとかは滅多にないわけで。
これまで暮らしてきた環境と比較すれば、よっぽど安全だった。
キッチンにお風呂もついてる。
コンビニも近い。
便利で快適な我が家だ。
(節約すれば、あと一年くらいは何とかなりそうだけれど……)
いずれ、行き詰まることはわかっている。
けれど、「結婚」するつもりは微塵もない。
最悪の形で婚約破棄を経験し、結婚を想像するのすらまっぴらだった。
もう一度、人を、男性を信じられる気がしない。
(それに……まだ、諦めがつかない)
手にした黒いヴァイオリンケースを握りしめ、はらはらと花びらを散らす桜の木を見上げる。
(この風景に合う曲は……ベタなヴィヴァルディ? それとも、やっぱり日本の曲?)
桜に似合う曲を思い浮かべかけ、ハッとした。
公園の時計が示す時刻は、アルバイト先にシフトインすべき十分前だ。
(や、ヤバイっ!)
日本へ来て最初に学んだのは、日本人は時間に正確だということ。
たった一分の遅刻だって、許されない。
スマホを鞄へ放り込み、全速力で公園を走り抜けた。