溺愛音感
「ハナ」
「ん?」
呼びかけられ、傍らに立つ和樹を見上げる。
「この先もずっと、ハナのファンとして応援している。もし、俺に何かできることがあったら、いつでも連絡してくれ」
「和樹……」
その気持ちだけで、十分だった。
実態がどうであれ、元婚約者で、現既婚者である彼に連絡することはないだろう。
「うん。近いうちに、コンサートホールで演奏を聴いてもらえるよう、頑張る」
「楽しみにしている」
和樹は大きく頷いて、ふと身を屈めた。
『Je t'ai aimée 』
耳に落ちた囁きに気を取られた一瞬、温かくて柔らかなものが頬に触れた。
(え……?)
「離れろっ!」
いまのは何だったのか、確かめる間もなく、怒声が聴こえた。
見れば、マキくんが和樹をわたしから引き剥がし、威嚇するように見下ろしている。
和樹は、いまにも噛みつきそうな様相のマキくんを前に、怯む様子もなく、ニヤリと笑った。
「別れの挨拶です」
「そんなもの、言葉で言えば十分だっ!」
「頬にキスなんて、海外じゃ日常茶飯事ですよ。心狭いって言われませんか?」
「ここは日本だ! それに、俺は博愛主義者ではないっ!」
「束縛も、過ぎれば嫌われますよ?」
「束縛されていると気づかれなければ、問題はない」
「質が悪い人ですね。でも、いい人ほど早く亡くなるものだから、それでいいのかもしれない。九重社長、あなたはハナより十歳も年上なんですよね? くれぐれも長生きしてください。ハナを置き去りにして、悲しませないでくださいよ?」
(うわぁっ! 和樹のバカっ! なんでマキくんを挑発するようなことわざわざ言うのよぅっ!)
「余計なお世話だっ! 今度ハナに近付いたら、社会的に抹殺した上で、二度と日本の土を踏めないようにしてやる」
「日本を離れられるなら、むしろ喜んでお願いしたいくらいです。が、ハナにこうして会うのは、たぶん今日が最後です」
さっきは連絡しろと言った彼も、わたしたちがこうして会うことは二度とないとわかっているのだと知り、ハッとした。
視線が交わり、優しくその目が細められる。
未練はなかった。
でも、寂しいと思ってしまったのは、わたしを理解してくれていた人だから。
もしも、婚約していなければ――。
ただの、仕事上のパートナーだったら、いまもわたしの隣には「彼」がいたのだろうか。
そんな「現在」を想像しかけて、やめた。
マキくんがいない「現在」なんて、考えられない。
「じゃあ、ハナ。元気で」
「うん。和樹もね」
「さっさと帰れ!」
和樹は呆れた表情でマキくんを見遣り、わたしにふわりと笑いかけて、背を向ける。
遠ざかって行く背に、ふと何かを言い忘れている気がした。
「和樹っ!」
振り返った顔に、さっきまで見せていた笑みはなく、暗く沈んだ表情に胸を突かれる。
元婚約者であるわたしたちは、もう巡り会うことはない。
でも、一音楽家として、同じ楽器を愛するものとして巡り会えたなら、きっとこれまでとはちがった関係が築けるかもしれないと思った。
「いつか、一緒に演奏しよう! その時まで、ヴァイオリン弾くの、絶対にやめないで!」
目を見開いた和樹は、深く頷いてくれた。
ほっとして、美湖ちゃんから聞いた話を思い出し、もうひと言だけ付け加える。
「N市民交響楽団で弾いたら、きっと楽しいよ?」
そちらには頷いてくれなかったが、苦笑いして「考えておく」と言ってくれた。
和樹の「考えておく」の意味は、九割方「乗り気」ということだ。
コミュニケーション能力の高い和樹なら、きっとすぐにみんなと打ち解けるだろうし、三輪さんの跡を継ぐ、いいコンマスになってくれると思う。
今度こそ、その姿が自動ドアの向こうへ消えるまで見送って、マキくんを見上げる。
「マキくん、何か飲む? それとも、このまま帰る?」
不機嫌丸出しの顔で、忌々しげに和樹の背を睨みつけていたマキくんは、ぼそっと呟いた。
「……帰る」