溺愛音感
なぜ、個人の携帯ではなく、会社から架けてくるのか不思議に思いながら応答する。
「もしもし?」
『ハナさんですか? 社長秘書の中村です』
「え? あ、こ、こ、んにちは?」
思いがけない相手からの電話に戸惑って、挨拶すらしどろもどろになってしまった。
『いま、お電話大丈夫でしょうか?』
「え、あっと、はい」
電光掲示板で確かめれば、電車が来るまで、まだ三分ほど余裕がある。
『まだ召し上がっていなければなのですが、ぜひランチをご一緒したいと社長が仰せです。恐縮ですが、これからお伝えするホテルまでお越し願えますか?』
「あ、はい」
急ではあるが、特にこのあと予定があるわけでもない。
マキくんのお誘いを断る理由はなかった。
フォーマルな服に慣れるため、レッスンの時もきちんとした恰好をするようにという三輪さんの指導により、キレイ目のワンピースにストラップ付のハイヒール姿だ。
ホテルのレストランでも浮いたりしないはず。
『場所は、△〇駅南口から徒歩三分、△〇××ホテル。一階のレストランに、わたしの名前で席を予約してあります。社長は、少し遅れる可能性もあるので、先にご注文いただいてかまわないとのことです』
「はい、わかりました」
『では、よろしくお願いいたします』
電話を終え、お弁当はおやつにしようと決めた。
ランチのあと練習していれば小腹が空くだろうし、間食がわりにお弁当を食べても、晩御飯を食べるまで時間がある。
マキくんの帰りは、どんなに早くとも午後六時より前ということはない。
(とは言え、ガッツリ食べるのは控えたほうがいいよね。ホテルのレストランなら、美味しいものいっぱいありそうだけど……。サンドイッチかパスタかなぁ……?)
まだ見ぬメニューに思いを馳せながら、言われた通りの駅で降りる。
指定されたホテルは、迷いようがないくらい駅から目と鼻の先にあった。
緑豊かな公園に隣接しており、レンガ色をした落ち着いた佇まいの建物だ。
吹き抜けのロビーは白を基調としたデザインで、柔らかな黄味がかった照明で冷たさが和らぎ、見るからに居心地が良さそうだった。
一階奥にあるレストランの入り口で中村さんの名前を告げれば、すんなり窓際の席へ案内される。
他人の目を気にすることなく寛げるよう、席は計算された角度で並べられた上に、低めのパーテーションで囲まれていた。
座ってしまえば、通路からも近隣の席からも顔を見られる心配はない。
先に注文していいとは言われたが、空腹でも三十分くらいなら待てるし、取り敢えず、喉を潤すためにアイスグリーンティーを頼む。
大きな窓の向こうに広がる庭は、視界を遮る壁などはなく、隣接する公園の緑とひと続きのようにも見える。
整備された遊歩道の先には、池らしきものもあるようだ。
(帰りに、散歩してみようかな? 時間があれば、マキくんも誘ってみよう。いい気分転換になると思うし……)
溺愛する妹の椿さんが、いよいよ彼の親友である雪柳さんと正式に再婚するため、ここのところマキくんは落ち込み気味だ。
車の運転免許を取り直した彼女の練習に付き合い、頻繁に顔を合わせていたせいで、寂しさが倍増したらしい。
晩酌のワインの量も日々増え、寝る前には、スマホに保存してある幼い椿さんの写真を見て、切ない溜息を吐いている。
そんなマキくんの様子を間近に見ているものだから、追い打ちをかけるような話が、なかなか切り出せずにいた。