溺愛音感
ドキドキする心臓を落ち着けるために深呼吸し、空いているベンチに座り、ヴァイオリンケースを開ける。
演奏活動を停止した直接の理由は、体力が落ちてしまったからだ。
けれど、健康を回復しても、昔と同じようには弾けなかった。
自分以外の誰かが聴いている場所では、弾けなくなっていた。
聴かれていると思うと、手や足が震え、呼吸が浅くなり、まともに音が出せなくなるのだ。
母の前ですら、無理だった。
そんな状態が一年近く続いているのに、いきなり路上で弾くなんて無謀だ。
弾けたとしても、騒音でしかない、耳障りな演奏しかできないかもしれない。
(やっぱり……)
小さな溜息を吐いてケースを閉じようとした時、再びスマホが震えた。
『comodo』
――気楽に。
その言葉に背中を押されるようにして、閉じかけたケースを再び開けた。
窮屈な場所にずっと押し込められていた身体の一部を取り出し、震えながら飴色のボディに頬を寄せる。
あるべき場所にあるべきものが収まった安心感に包まれ、ほっとした。
(一曲だけなら……)
浅い呼吸を繰り返しながら、行き交う人をしばらく観察する。
誰も、わたしのことなど気にも留めていなかった。
足を止める人は、一人もいなかった。
誰も、見てない。
誰も、聴いてない。
だから、大丈夫。
震える足を踏ん張って、震える手で弓を握る。
弦に弓を滑らせた一瞬、耳障りな雑音がしたが、弾き始めてしまえば震えはぴたりと治まった。
一曲で、やめるつもりだった。
けれど、一度弾き始めたらやめられなくなった。
耳の奥、頭の中、心の底を流れる「音楽」をひたすら追いかける。
何も考えずに。
二曲、三曲……アイリッシュミュージック、ジャズ、カントリーソング、クラシックに日本の歌曲――。
どれくらいの間、弾いていただろうか。
額から滴り落ちる汗を拭おうとして手を止め、足元のヴァイオリンケースに転がるいくつもの銀色の硬貨に気がついた。
(え……お金?)
ざっと見ただけでも、二千円ちょっとはありそうだ。
驚きながら、腕時計を確かめるとあと十分で午後十一時。
辺りには千鳥足の酔っ払いばかり。
通りがかる人の数はめっきり減って、ほかのパフォーマーたちも帰り支度を始めていた。
憑き物が落ちたように、すっきりした気分で構えていたヴァイオリンを下ろしかけた時、チャリンと冷たい音がした。
ケースに放り投げられたのは、百円玉。
目の前には、赤い顔をした見るからに「酔っ払い」の男性が三人。
わたしと同じくらいの年頃に見えるが、三人とも大小の頑丈そうな黒いケースを背負っている。
その中の一人、やけにガタイのいい男性が、横柄な態度で超難曲をリクエストしてきた。
「パガニーニ、カプリース、二十四番」