溺愛音感


「は?」

「まさか弾けないわけないよな? 自信あるから、こうやって路上で演奏してるんだろ?」


相手は酔っ払いだ。
お金を返して、断ればいい。

でも、無意識にわたしの口からこぼれ落ちたのは断りの言葉ではなく、こんな時に父が口にしていた常套句だった。


「もう五百円払うって言うなら、弾かないこともないけど?」


酔っ払いを挑発するなんてバカな真似をしてはいけないと、なけなしの理性が頭の片隅で叫ぶが、もう遅い。


「弾けなかったら、全部返してもらうぞ」

「おい、やめろって、ヨシヤ」

「おまえ飲み過ぎ」


酔っ払い度合いがまだマシらしい、連れの二人が止めようとするのを振り切って、彼は五百円玉を放り投げた。


もしも、リクエストされたのが別の曲だったなら、断っていた。


けれど、


『これが弾ければ、たいていのヤツを黙らせることができる』


父にそう言われ、必死になって練習した曲はダントツの練習回数と演奏回数を誇る。


最後の演奏に相応しい曲だった。


(……お父さんのリクエストかもね)


そう思えば、目の前で聴かれていることも気にならなかった。

一瞬たりとも気が抜けない難曲は、常に試されているような感覚が心地よくさえある。

遮るものも、邪魔をするものもない空間で思うがままに弾き終えて、新たな汗が滲んだ額を拭い、あんぐりと口を開けて固まっている相手に訊ねる。


「……お金、返す?」

「…………」

「まさかっ!」

「なぁっ!?」


連れの二人に肩を叩かれ、コクコクと頷く人の姿を見て、父がとりわけ気に入っていた日本語でお礼を言った。


「じゃ、おおきに」

「…………」

「さ、帰るぞ。ヨシヤ」

「どうもお邪魔しました~」


ヨシヤの友人二人が、口をパクパクさせている彼の腕を抱え、引きずるようにして去って行く。

これ以上絡まれないことにほっとして、しゃがみこんでヴァイオリンケースの中の硬貨を集めていると、ヒラリと何かが舞い落ちた。


「……?」


磨き抜かれた革靴が視界を横切り、消える。

気前のいい誰かが、千円札でも投入してくれたのだろう。

とりあえず硬貨をジーンズのポケットに詰め、最後にケースから拾い上げた二つ折りの紙を広げる。

と、そこにいたのはなんと「福沢諭吉」。


(い、一万円っ!?)


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