溺愛音感
テーブルの上の小さな箱を見下ろし、絶対に失敗できないと決意を新たにした時、パーカーのポケットの中でスマホが震え出した。
「もしもし、マキくん?」
『遅くなってすまない。まだ起きていたか?』
「うん。マキくんこそ、遅くまでお疲れさま。もう準備できてる?」
『ああ』
通話から、フロントカメラの動画に切り替え、ちょうどいい高さのキャビネットの上に据える。
「見えてる?」
ディスプレイに映るマキくんは、Tシャツスウェット姿でソファーに座っていたが、身を乗り出し、こちらを覗き込んだ。
『なんて恰好をしているんだっ!? ハナ!』
「え、に、似合わないかな……? 音羽さんがファンから貰ったものの、趣味じゃないからってくれたんだけど」
いまのわたしは、もこもこふわふわ、ピンク色のルームウェアを着ていた。
パーカーにショートパンツ、ニーハイのソックス付きで、フードには長いウサギの耳もついているアニマルスタイルだ。
二十五歳の大人の女性が着るにはいささか幼すぎる気もするが、肌触りがよく、気に入っていた。
マキくんは、ひどく不機嫌そうな顔で睨んでいたが、突然髪をかきむしり、呻くように呟いた。
『いや、似合わないんじゃなく、似合いすぎる……が、できればウサギではなく犬がいい』
「は?」
『どこのブランドだ?』
「えっと……」
パーカーを脱いで、タグを確かめて告げる。
マキくんは短く返事をし、全種類買うなどと言っているが、明らかにイライラしている。
「マキくん、どうしたの?」
『どうもしない』
「気に入らないなら、着替えて来ようか?」
『いや、そのままでいいから、早くパーカーを着ろ! それから、その恰好で音羽先生以外の人間に会うのは禁止だっ!』
「う、うん?」
(部屋着なんだから、音羽さん以外の誰にも会わないよ……)
マキくんの不可解な言動に内心首を傾げつつ、キャミソールの上にパーカーを羽織り直す。
『ちゃんとファスナーを閉めろ!』
(はいはい……俺様の仰せのままに……)
「今日は何を弾く? 音羽さんはもう寝ちゃったから、無伴奏になるけど」
『バッハ、ソナタ第2番イ短調 BWV1003……第三楽章 Andante』
(うわ……ソレ?)