溺愛音感


テーブルの上の小さな箱を見下ろし、絶対に失敗できないと決意を新たにした時、パーカーのポケットの中でスマホが震え出した。


「もしもし、マキくん?」

『遅くなってすまない。まだ起きていたか?』

「うん。マキくんこそ、遅くまでお疲れさま。もう準備できてる?」

『ああ』


通話から、フロントカメラの動画に切り替え、ちょうどいい高さのキャビネットの上に据える。


「見えてる?」


ディスプレイに映るマキくんは、Tシャツスウェット姿でソファーに座っていたが、身を乗り出し、こちらを覗き込んだ。


『なんて恰好をしているんだっ!? ハナ!』

「え、に、似合わないかな……? 音羽さんがファンから貰ったものの、趣味じゃないからってくれたんだけど」


いまのわたしは、もこもこふわふわ、ピンク色のルームウェアを着ていた。
パーカーにショートパンツ、ニーハイのソックス付きで、フードには長いウサギの耳もついているアニマルスタイルだ。

二十五歳の大人の女性が着るにはいささか幼すぎる気もするが、肌触りがよく、気に入っていた。

マキくんは、ひどく不機嫌そうな顔で睨んでいたが、突然髪をかきむしり、呻くように呟いた。


『いや、似合わないんじゃなく、似合いすぎる……が、できればウサギではなく犬がいい』

「は?」

『どこのブランドだ?』

「えっと……」


パーカーを脱いで、タグを確かめて告げる。
マキくんは短く返事をし、全種類買うなどと言っているが、明らかにイライラしている。


「マキくん、どうしたの?」

『どうもしない』

「気に入らないなら、着替えて来ようか?」

『いや、そのままでいいから、早くパーカーを着ろ! それから、その恰好で音羽先生以外の人間に会うのは禁止だっ!』

「う、うん?」

(部屋着なんだから、音羽さん以外の誰にも会わないよ……)


マキくんの不可解な言動に内心首を傾げつつ、キャミソールの上にパーカーを羽織り直す。


『ちゃんとファスナーを閉めろ!』

(はいはい……俺様の仰せのままに……)

「今日は何を弾く? 音羽さんはもう寝ちゃったから、無伴奏になるけど」

『バッハ、ソナタ第2番イ短調 BWV1003……第三楽章 Andante』

(うわ……ソレ?)


< 335 / 364 >

この作品をシェア

pagetop