溺愛音感

ぎょっとして顔を上げたが、すでに「一万円の君」は通りを渡り、繁華街へ消えようとしていた。

慌ててヴァイオリンをケースに納め、追いかける。

貰えるものはありがたく貰う主義だけれど、いくらなんでも一万円は高すぎる。

通りを渡ろうとして、タイミング悪く赤になった信号にイライラしながら、つま先立ちになって行く先を見定めようとしていたら、路地を曲がってしまった。


(ああっ! もうっ!)


ようやく信号が青になるのを待って、走る。

彼が消えた路地に足を踏み入れ、立ち並ぶ大小の居酒屋やスナック、バーの看板を目にして思わず額を押さえた。


(うそ……こんなにあるなんて……)


まっすぐ続く通りに人影はない。
この中のどこかにいると思われるが、一軒ずつ探し回るなんて無理だ。

そう思った時、通りの先にひっそりと光る小さな看板が目に入った。



Adagio(アダージョ)



音楽用語の店名が、何となく気になった。

フリーターの貧乏暮らしでは、バーで飲む余裕などないし、飲み友だちもいない。
この街で暮らし始めてから、繁華街自体に足を踏み入れたことがなかった。

店のドアは固く閉ざされ、一見の客はお断りという雰囲気をひしひしと感じる。


それでも、惹かれる何かがある。


(居酒屋のようにチャージなしというわけにはいかないだろうし……人を探しているのだと言って、中を見せてもらって……早々に退散しよう)


好奇心とほんの少しの期待を胸にドアを引き開ける。


「いらっしゃいませ」


艶やかな声で出迎えてくれたのは、初老の髭を生やした優しそうな雰囲気の男性。

薄暗い店内は、細長い空間にカウンター席が五つあるだけ。
奥にはグランドピアノが見えるが、演奏者の姿はない。

ずらりと棚に並んでいるのは高級なウィスキーやブランデー。

大人の店だ。

ジーンズにヨレヨレのTシャツを着た小娘が入るような店ではない。

あきらかに場違いな自分に引け目を感じ、そのままドアを閉めてしまいたくなったが、カウンターの奥に座る男性と目が合った。



そこにいたのは……


その辺ではお目にかかれないような、整った容姿の持ち主。

セレブで、オジサンで、大嘘つきな、破談にする予定のお見合い相手……


イケメン社長(毒舌)だった。

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