溺愛音感
「ねえ……ちなみに、いくらしたの?」
暇を持て余している女帝は、緊張のあまり壊れそうなわたしのハートを労わることなく、不躾な質問を浴びせてきた。
「教えない」
「薔薇は用意した?」
「ううん」
「ひざまずくの?」
「ずかない」
平常心はどんどん失われ、歯ぎしりしてしまいそうだ。
「ねえ、本当に『愛の喜び』弾くの? ベタすぎてつまらないわ」
「王道と言って」
「ちがう曲にしましょうよ?」
ようやく到着したエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。
いまさら演奏する曲を変更するつもりなどさらさらないが、女帝の要望を無視するとあとで面倒だ。
一応伺っておく。
「音羽さんは、何がいいと思うの?」
「ドヴォルザーク、ユーモレスク 第七曲」
「は?」
知らぬ人はいないほど超有名な曲だが、プロポーズとか愛の告白とかに使われる種類の曲ではない。
なぜなのか、甚だ疑問だ。
「どうして?」
説明を求めると、むき出しの肩を竦める。
「日本へ連れ帰った当時、ハナがずうっと弾いていたからよ」
「え?」
「何か、特別な思い入れがある曲だと思ったんだけれど?」
思わず振り返ると、真っ赤な唇を綻ばせる。
マキくんとの最初の出会い、空白の一週間にあったこと、すべてお見通しだと言うように。
「本番は、来年の定演になるでしょうけれど……大切な『約束』に相応しい選曲じゃないかしらねぇ……?」