溺愛音感
昨年、初挑戦のコンクールで幸運にも優勝したわたしは、N市民交響楽団と初の日本公演を実現させることができた。
音羽さんとわたし、ピアノとヴァイオリンのコンチェルトに、シンフォニーという贅沢かつオケの体力気力を試すようなプログラムは、人気の高い曲を取りそろえたこともあり、チケットは完売だった。
グリーグのピアノ協奏曲 イ短調、
ブルッフのヴァイオリン協奏曲 第一番 ト短調、
ブラームスの交響曲第一番 ハ短調。
わたしと音羽さんは、アンコールにドヴォルザークの『ユーモレスク 第七曲』を演奏し、瑠夏さんとの約束も果たした。
チケットが完売した上に、音羽さんとわたしはノーギャラだったので、オケの資金はかなり潤ったようだ。
友野先生をはじめとしたオケのメンバーは、過酷な練習を経ての体力勝負の本番に、その後しばらく屍のようになっていたらしいが、次の定演目指して、再び練習に励んでいる。
今度は、市民合唱団との共演を考えているらしく、ヴェルディのレクイエムに挑戦中だ。
わたしは、コンクールでの優勝という看板を引っ提げて、日本各地のアマチュアを含めたオーケストラとの共演を中心に、三か月に一度くらいの割合で海外のオーケストラとの共演に挑戦する日々を送っていた。
女帝のパートナーを通して紹介してもらった敏腕マネージャーに、共演するオケや指揮者を厳選してもらい、無理のないスケジュールを組んでいるので、いまのところ大きなトラブルはない。
批評家たちには、絶賛されることもあれば、酷評されることもあるが、ゴシップ誌に取り上げられるようなことはなく、心穏やかに過ごせている。
今年の終わりには、無伴奏曲だけを集めたCDを出す話も進んでいて、なかなか訪れることができない国の人たちにも聴いてもらえそうだ。
順調すぎるくらい順調で、充実している。
が、わたしの勘が正しければ、おそらく一か月後の公演が終わったら、しばらく移動を伴う仕事は休止することになるだろう。
『駆け出しってことはないでしょう? わたし、あなたのCDを持っているもの』
『え』
にっこり笑った婦人に驚く。
『あなたの演奏がまた聴けるようになって、とても嬉しいわ』
『ありがとう、ございます』
そんな風に言ってもらえるなんて、ありがたくて嬉しくて、涙が出そうだ。
『次の公演は?』
ブリッジから到着ロビーへ向かう間、陽気な老婦人に次々質問されるままに答えた。
『あ、ええと、S市民交響楽団と』
『あら。アマチュア?』
『はい。プロでもアマでも、一緒にやりたいと言ってくれて、わたしのスケジュールが合えば受けることにしているので』
『そうなの。楽しみね?』
『はい』
『じゃあ、しばらく日本にいるのね?』
『そうですね』
『それなら、独占記事を書かせてもらわなくっちゃ!』
『え?』
『以前、あなたについて書かれた記事を読んだのだけれど、あなたの魅力、あなたの影響力を十分に生かし切れていない代物だったわ。ずっともどかしく思っていたのよ。きっと、あなたの姿に勇気づけられる人はたくさんいる。できれば、すてきな旦那さまとのなれそめなんかも取材したいところだわ。本当は今日にでも、と言いたいところなんだけれど、あいにく日本企業の若手経営者のインタビューが入っているの。改めて連絡させてちょうだいね?』
あっけに取られるわたしの手に名刺を押し付けた彼女は、迎えに来ていたらしき女性のもとへと歩み去る。
手にした名刺には、世界中で読まれているビジネス誌を筆頭に、各分野の歴史ある雑誌を発行している超有名な出版社の名があった。