溺愛音感
(嘘でしょ……)
一度落ちぶれ、コンクールで優勝はしたものの、その後派手に売り込むことなく、細々と演奏活動を続けているヴァイオリニストの記事なんて、読みたい人がいるのだろうか。
(ま、リップサービスだよね。でも……)
もしも、ヴァイオリン以外でも、わたしが誰かを勇気づけられるのなら、嬉しく思う。
これまで、ゴシップを嫌い、取材やインタビューには応じていなかったが、そろそろ新たな一歩を踏み出すべき時なのかもしれなかった。
(彼女と出会ったのは、そういう意味があるのかもね)
新たな出会いには、常に可能性が秘められている。
目をつぶってやり過ごすのは、勿体ない。
マネージャーを通して打診があれば、前向きに検討しようと決め、タクシーに乗り込む。
「こんにちは。どちらまで?」
「ええと……」
運転手にマキくんのマンションの住所を告げようとして、ハタと我に返った。
現在、平日の真っ昼間だ。
彼が家にいるはずがない。
部屋の鍵は失くすのが心配で、日本を離れる時は置いていくことにしている。
(会社……に行ったら、迷惑かな? でも、ほかに選択肢ないし)
予定では、明日帰国することになっているのだ。
そんなに驚くこともないはずだと思い、『KOKONOE』本社ビルを行き先に告げた。
高層ビルの立ち並ぶ風景は、石造りの建物が多い国の風景とはまったく異なり、過去から未来へタイムスリップしたような気分になる。
近代的な日本も嫌いではない。
けれど……
(どうせ住むなら『ザ・日本』って感じのところがいいなぁ……)
駅からも、コンビニからも近いマンション住まいは便利だ。
ただ、新しい家族には、走り回れる庭があって、いろんな人からたっぷり愛情を受け取れる場所を用意したい。
つい先日、義妹の椿さんの妊娠を知って、ベビー用品を山のように買ったという松太郎さんの話を思い出し、つい笑みがこぼれた。
わたしだけでなく、みんなが気軽に帰って来られる場所がほしい。