溺愛音感


タクシーをビル前の車寄せで降り、エントランスに足を踏み入れ、何だか騒がしいことに気づく。

エントランスの奥から、チェロのものと思われる艶やかな音が聞こえてくる。


(ランチタイムコンサート?)


時計を見れば、ちょうど昼休みの時間だ。


(しかも……ヨシヤ!)


どうやら、今日はすっかり定番となったオフィスビルでのランチタイムコンサートの日で、演奏はN市民交響楽団の番らしい。

ヨシヤが奏でるチェロとバンドネオンの演奏にうっとりと聴き入っている人たちを見回す美湖ちゃんと目が合った。

「あ」という形に口を開いた彼女は、傍にいたメンバーに何かを耳打ちし、するすると人の間を縫ってわたしの前までやって来た。


「ハナさん! 帰国は明日じゃなかったんですか?」

「うん、その予定だったんだけど、早く帰りたくて便を変更したの」

「柾さんは知ってるんですか?」

「ううん」

「え。それ、大丈夫です? 喜ぶ前に、怒られません?」


いつもなら、なぜ事前に連絡しないと叱られるだろう。
でも今日は、そうならない自信があった。


「たぶん大丈夫。きっと、驚きすぎて怒れないと思う」

「そうですかぁ?」


疑いの目を向けてくる美湖ちゃんからプログラムをもらう。

ヨシヤたちのあとは、「トランペット吹きの休日」だ。

クラシックだけでなく、映画音楽やボサノバなども取り入れたプログラムは「気軽に聴いてほしい」というランチタイムコンサートの趣旨にぴったりだった。


「最初から聴けなかったのが残念だよ」

「そんなの、ハナさんのためならいつでも演奏しますよ! しばらくこっちにいるんですよね? 練習に顔出しませんか? 三輪さんや友野先生も会いたがってますし」

「うん。お邪魔しようかな」

「そうそう、三輪さんの跡を継いでくれそうなコンマスも見つかったんです。前に、一度お誘いして断られてたんですけれど、むこうから入団させてほしいと言ってきて」

「ふうん……?」

「しかも、メチャクチャ上手いんですよ! 三輪さんが、弟子にしたかったと言うくらい!」

「よかったね?」

「はい! 相馬 和樹さんって言うんですけどね。音楽教室を運営している会社の御曹司で、独身で、イイ男なんです! バツイチでも、そんなのぜんぜん気にならないくらい紳士なんですぅ」

「――っ!」

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