溺愛音感
(こ、こういうお店でビールって、頼んでいいんだっけ?)
マスターは、キョロキョロしているわたしを見て、手書きのメニューを出してくれた。
そこに並ぶのは高価なブランデーやウィスキー(もちろんボトル)とカクテルの名前。
ボトルは、手持ちのお金ではとても足りない値段だし、カクテルも一杯千円以上はする。
(どうしよう……これに、チャージ入ったら……お財布は給料日前でほとんど空……バスキングで貰った二千円ちょっとしかないし……イケメン社長(毒舌)の一万円は使いたくないし)
「あの、わたしやっぱり……」
帰る、と言いかけたのを遮るように、マスターがヴァイオリンケースを指差した。
「代金の代わりに、柾くんが一万円払うほど価値があると思った演奏、聴かせてくれないかな?」
「え……あの、でも」
「先払いになっちゃうけどね?」
「でも……」
「いいから、弾け!」
横から再びイケメン社長に命令され、「うっ」と言葉に詰まる。
路上で演奏していたのに、弾けないなんて言い訳が認められるはずもない。
「せっかくだから、リクエストしてもいいかな?」
期待に目を輝かせるマスターに見つめられ、渋々頷く。
「……知ってる曲なら」
「じゃあ、パガニーニのカプリース、十七番をよろしく」
(はいっ!?)
ニコニコ笑いながら、二十四番と同じく、超絶難しい曲の一つと言われているものを平然とリクエストしてきたマスターに目を見開く。
「あ、ちょっと待って! 途中で邪魔が入ったらイヤだから、閉店しちゃおう!」
やけに素早い動きで店のドアに「Closed」の札をかけ、しっかり鍵まで閉めたマスターは、カウンターに戻らず席に腰を落ち着けて、聞く気満々だ。
(な、なんでこんなことに……)
今日は、厄日かもしれないと思いながら、しまったばかりのヴァイオリンを取り出し、弦の調子を整える。
路上で演奏とちがい、「聴かれている」のが気になってしまうかもしれないと思ったが、弾き始めれば余計なことを考えている暇はなくなった。
無事弾き終えて、ほうっと息を吐いておずおずとマスターの様子を窺う……と、ずいっと大きな手を差し出された。
つい習慣で握り返すと大きく振り回される。
「ブラーヴァっ! ハナちゃんっ! 惚れたっ! 惚れたよっ! そんなちっちゃな身体なのに、なんて男前な演奏なんだっ! 柾くんが一万円払う気持ちもわかるよ。もう、ハナちゃんから永久にお代はいただけない。いつでも、何杯でもタダでいいっ!」