溺愛音感

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桜吹雪が美しい土曜日の夕方。

近代的なコンサートホールとして名高い『KOKONOEホール』には、二千人弱の聴衆が詰めかけていた。

ステージの後ろ側まで、ぎっしりと埋まった客席は圧巻だ。

数年ぶりに来日した、世界的に知られている超有名オーケストラによる三夜連続の公演は、今日が最終日。

一回分のチケットだって、一番安い席でも諭吉が二枚は必要。

しかし、三日間通しのチケットはS席だと十万円近いにもかかわらず、発売開始五分で完売したらしい。


(タダで聴けるなんて、ラッキーとしか言いようがない……)


レセプショニストとして、ホールの出入口でお客様の様子を窺う仕事中ではあるが、演奏が始まってしまえば楽章の合間でもない限り、出入りする人は滅多にない。

艶やかで華やか、厚みのある音色はこのオーケストラ特有のもの。
指揮者が変われば、曲の解釈や表現の仕方も変わるが、変えられないのがオケの色だ。

メンバーが入れ替わっても、何十年と積み重ねられてきた色は、これからも受け継がれていく。

それも、超一流のメンバーが揃っているからこそ、可能なこと。
妥協を許さず、真摯に音楽と向き合う情熱を持つ人たちだけが居続けられる場所だ。


緊張、高揚、解放、そして――。


過去に呑み込まれそうになり、ハッとして軽く首を振る。


ブラームスの舞曲、グリーグのピアノ協奏曲と続いたプログラムの最後は、ドヴォルザーク。
知らぬ人はいない超が付くほど有名な交響曲。


(やっぱり、めちゃくちゃカッコイイ)


郷愁を帯びた第二楽章もいいが、やっぱり第四楽章が一番好きだ。

終盤へ向け、速度も音量もどんどん増していく。

まさに『Allegro con fuoco』。

華々しい終わりを予感させておきながら、地平線へと遠ざかっていく列車を見送るように余韻を残す最後。

一瞬の沈黙の後、拍手と歓声がホールを満たした。

詰めていた息をそっと吐き、椅子から立ち上がって重いドアを開け放つ。

普段のコンサートなら、諸事情あってアンコールを聴かずに帰るお客さまもちらほらいるが、今夜は誰ひとり立ち去ろうとしない。

一度、舞台袖に引っ込んだ指揮者が割れんばかりの拍手に応えて戻って来ては、コンマスと握手をしたり、団員を立たせたり。三度舞台袖と行き来した後、指揮者がひょいっと指揮台に上り、タクトを構えた瞬間、再び会場が静まり返る。

ドアを閉ざし、アンコールらしいのびやかで晴れやかな演奏を満喫した。

盛大な拍手が送られる中、会場が明るくなると「もうアンコールはない」と知った聴衆が、溜息をこぼしながら帰り支度を始める。

さまざまな感動を胸に帰路へ着く人たちを送り出し、がらんとした広いホールを見渡せば、ステージの上ではすでに片付けが始まっていた。


(あーあ、終わっちゃった……)


記憶にしか留めておけない贅沢なひと時は、たった二時間で醒めてしまう儚い夢だ。
取って置けるのは、心を揺さぶられたという感動だけ。


(だからこそ、何度も聴きたくなるんだけどね)


小さく溜息を吐き、ホワイエへむかう。

満席だったこともあり、クロークには長い列ができていた。

クローク係だけでは、とても対応しきれない。
カウンターの中へ素早く入り、お客さまの差し出す番号札を受け取る。

奥の棚から素早く、しかしまちがえないよう慎重に確認して荷物を取り出し、笑顔で差し出す。

次々と押し寄せる人波をさばくことだけに集中していたが、残すところあと数名となったところで、ホワイエを横切る仲睦まじい一組の男女の姿に目を奪われた。



(え……?)


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