溺愛音感
庇うように女性の肩を抱く男性の横顔に、見覚えがあった。
こんなところで見かけるはずのない人。
二度と会いたくなかった人。
元婚約者の「相馬 和樹」が、そこにいた。
女性の肩を抱く手――その薬指には、金の指輪が光っている。
(まさか、和樹のはずがない。ちがう……ちがうはず……)
彼との婚約を破棄して、まだ一年。
それなのに、もう別の相手と結婚しているなんて、俄かには信じられなかった。
人まちがいではないかと思い、もっとよく確かめようと必死に目で追ったが、人波に遮られて確証は得られないまま、二人の姿は見えなくなってしまった。
(うん、よく似た別人よ。だって、そんなはずない)
もう一年と言うべきなのかもしれないが、わたしにとっては「まだ」だ。
必死に「あれは別人だ」と自分に言い聞かせていたら、頭上から冷ややかな声が降って来た。
「急いでるんだが?」
「あ、も、申し訳ございません、ただいまお持ちしますっ!」
ろくに顔を見ずに、差し出された番号札を受け取って、クロークの奥へ逃げ込む。
「ハナさん、大丈夫ですか? 何か言われました?」
アルバイト仲間の美湖ちゃんが心配そうな表情で声をかけてくる。
「だ、大丈夫」
心臓が激しい鼓動を刻み、手が震える。
目をつぶってうずくまり、何の音もしない、何も感じない空間へ逃げ込みたかったけれど、いまは仕事中だ。
込み上げる感情を無理やり押し込め、見るからに高そうなブランド物のトレンチコートとビジネスバッグを手に取って、カウンターへ戻る。
「お待たせしました。コートと手荷物が一点ですね?」
仕事が終わるまでは、思考も感情も凍結させようと決め、なるべくいつも通りの対応を心がける。
「ああ」
「ありがとうございました」
まだ顔が強張っているのを自覚し、俯いたままあいさつした頭上に、小さな呟きが落ちた。
「あんなクズのどこがいいんだ」