溺愛音感
床ではなく、きちんとテーブルに置かれた古びたヴァイオリンケースを開ける。
置いたのは、酔っぱらっていたわたしではない。
マキくんだ。
毒舌で、人の話を聞かない俺様だけれど、
(こういうところが…………嫌いになれない)
時折見せる思いやりや優しさに、心が揺れる。
「今日は、何を弾けばいいの?」
曲名を要求すれば、まるで関係のない質問を返された。
「ハナ。仕事の予定はどうなっているんだ?」
戸惑いと後ろめたさ、きちんとした職に就けていない劣等感。
複雑な気持ちを抱きつつ、見栄を張ってもバレるだろうと諦め、素直に答える。
「今週は……いまのところ次の土曜日のレセプショニストのアルバイトだけ……」
単発のバイトが急に入ることもあるが、望みは薄い。
「だったら、ちょうどいいな。一週間もあれば、ある程度ストックできるだろう」
「……ストック?」
「残りのリクエスト、九十九曲をいま決める」
「え?」
唖然とするわたしをよそに、マキくんは白い壁に設置された透明なホワイトボードに、ペンを走らせた。
そのスピードたるや凄まじく、パソコンがデータを処理して結果を吐き出す様を擬人化したらこうなるのでは、と思うほど。
「よしっ!」
パガニーニ、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ドヴォルザーク、イザイ、バルトーク、クライスラー、プロコフィエフ、フォーレ、マリー……etc
十分ほどで書き出されたリクエストは、作曲家も時代もさまざま。
一度も弾いたことのない曲も、かなり含まれている。
「この中から、ハナが弾きたい曲を毎日一曲選んで演奏しろ。仕事でお互いのスケジュールが合わない場合は、翌日に繰り越す。ただし……この九十九の曲目について、変更は認めない」
「……つまり?」
「弾けないという言い訳は、認めない」
「そんなっ……」