溺愛音感
「で、どこの店だ?」
車のエンジンをかけたマキくんがバックミラー越しに訊ねる。
「え、あ、あの、〇×△屋ってお店です。住所は……」
「そこなら知っている」
「えっ! セレブは行きそうもない、あんな小汚い居酒屋をご存じで……?」
美湖ちゃんの正直すぎる反応に、マキくんはむっとしながら車を発進させた。
「セレブでも居酒屋くらい行く。あそこの焼き鳥は美味い」
「そうなんですよ! さすが社長! 舌が肥えてますね?」
「だが、女一人で行くような場所ではないだろう。連れはいるのか?」
「あ。はい、います。オケの仲間で、草食ですけど男子も混じってますので」
「……オケ?」
「美湖ちゃんは、音大の院生で音楽療法を勉強しながら、N市民交響楽団でトランペットを吹いてるの」
「N市民交響楽団……数年前に設立されたアマオケか」
「はい! あ、その節はどうもありがとうございます! 『KOKONOE』からも多額の寄附をいただいて……」
「その後、活動は順調なのか? あまりパッとしない印象だが」
「うっ……痛いところを……」
「パッとしないって、演奏のこと? それとも……」
後部座席を振り返ると、胸を押さえた美湖ちゃんがシートに寝転がっていた。
「団員を確保するのが難しいんです。プロオケじゃないので、お金にならないからチャンスがあればみんなそっちに行っちゃうし。学生メンバーは入れ替わるし、趣味でやってる人は仕事が忙しくなると足が遠のいちゃうし。コンマスの三輪さんは腰痛持ちだし。有名な指揮者やソリストはギャラが高くてなかなか呼べないし。年に一回の定期演奏会は何とかやれていますけど、集客力が足りなくて赤字ですし」
演奏会のチケットの収入は会場を借りる費用に消え、そのほかの経費はかき集めた寄附金と団費で賄っている。
エキストラを頼んでも謝礼を出せないため、レパートリーを増やしたくても、編成が無理そうな曲は候補にすら挙げられない。
どうしてもやりたい曲がある場合は、何とかしてかき集めるが大変な労力を要する、ということらしい。
美湖ちゃんは、悩みが多いと大きな溜息を吐いたが、ガバッと起き上がった。
「でもいま、次の定演に大物ピアニストの出演を打診中なんです。OKを貰えたら、すっごくいい宣伝になるだろうし、団員の士気も上がるし、まだまだこれからですよ~」
そう言ってニッと笑う姿は、いつもの元気で前向きな美湖ちゃんだ。
「いい返事をもらえるといいね?」
「はい! ハナさんも、祈っててくださいね!」
「うん」