溺愛音感


ようやく空になった段ボール箱を英会話教室の受付に渡し、派遣会社に終了の報告をしてふらふらする足取りでマンションへ向かう。

もしもこれが以前住んでいたアパートだったら、帰りつけなかっただろう。

どうにか部屋に入って、リビングの床に倒れ込む。


(も、限界……)


ひんやりした床が火照った頬に心地よい。

目をつぶり、ほんの少し休むだけのつもりだったが、気がつけば部屋の中がすっかり暗くなっていた。


(うわ! あのまま寝ちゃってた……)


熱が上がってきているのか、寒気がする。


(やっぱり、ちょっと無理しすぎたかな……)


ここ三日間は、かろうじて一日一曲弾く程度の体力は残っていたものの、新たに曲をストックするまでの余裕はなかった。

一度も弾いたことのない曲の譜読みだけでも、さっさと終えてしまいたいところなのに……。

ソファーによじ登り、ジーンズのポケットからスマホを取り出す。


(六時……普通のサラリーマンなら、これくらいの時間には退勤しているはず……)


しかしながら、未だ飼い主は帰宅していない。

きっと、忙しいのだ。

何かあったら連絡するように言われたけれど、仕事の邪魔をするのはどうかと思う。


(ただの風邪だろうし、水分を摂ってたっぷり眠れば、そのうち治るし……でも……)


帰宅時間がわからなかった。


(そもそも……帰って来る……?)


そう思ったら、途方もない心細さに襲われた。


ひとりでいることには慣れているし、大人なのだから自分の面倒くらい自分で見られる。

なのに、震える指は勝手に「ORESAMA」の番号を呼び出し、通話ボタンをタップしていた。



一、二、三……諦めかけた五コール目で、電話が繋がる。



「もしもし、ま……」


呼びかけようとして、息を呑んだ。


『ちゃんと聞いてるわよっ!』


< 91 / 364 >

この作品をシェア

pagetop