捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 翌日になり、私は通常通り出勤していた。

 いつものルーティンで仕事をしながら、何度も昨夜を思い出す。

 私は昨日、結局拓馬さんの手を取らなかった。
 抱えていた不安を吐き出して気持ちは楽になったものの、現実的な問題は多々あるから。

 仕事だってそう。この職場には恩がある。両親や妹にだって散々心配や迷惑をかけておいて、『お世話になりました。それでは』というわけにはいかない。

 なによりも、拓馬さんの元へ行くと決めれば理玖は七井グループの子息となるはず。
 それは、理玖の人生を大きく変える話だ。簡単に答えは出せない。

 あとは……自分の弱さ。

 拓馬さんに再会してわかった。私は今でも彼と会えば気持ちが大きく揺れ、心を奪われる。

 拓馬さんの気持ちはもう疑ったりしない。彼は誠実でやさしい。
 だけど、また前みたいに周りの人たちに横やりを入れられて離れざるを得なくなったりでもしたら……。

 きっと二度目はもう、立ち直れない。

 昼休憩の間も、無意識に頭の中はそのことばかり。

 気晴らしに敷地内の金木犀を眺めがてら散歩する。ここの金木犀は昨年、私を癒してくれた。

「見事だねえ。芳しい香りがまたいい」

 上ばかり見て歩いていたから、裏口前に人がいると気づかなかった。突然話しかけられた私は、びっくりして声のほうを振り向く。
 そこには金木犀を仰ぎ見る、七十代半ばほどの男性がいた。

「美しい色と甘美な香りに心が安らぐ」
「そうですね」
「私の妻も金木犀が好きでねえ。うちの庭にも金木犀を植えたくらい」

 敷地の外から眺めているところを見れば、入所している人ではないのかな。話し方もしっかりしているし、近所の家から散歩してきた人かもしれない。

「へえ。私も広い庭があれば植えたくなるかもしれません」

 私は老人への警戒心を解き、言葉に応えた。
 すると、老人がさらに会話を弾ませる。
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