捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 約三十分後に、拓馬さんがリビングに現れた。

「水、いります?」
「ああ。ありがとう」

 キッチンからグラスを手にして、ダイニングテーブルに着いた拓馬さんへ水を渡す。

 仕事には前髪を上げて行く彼の素のヘアスタイルは、いつもよりも幼く見えて新鮮だ。少し年齢差が縮まった錯覚に陥る。

 仕事モードの凛々しい姿も素敵だけど、自宅でリラックスしている拓馬さんのほうが親しみやすい。

「真希が料理得意なのは知ってるけど、こんなに品数作るのは大変だったろう?」
「作り置きをアレンジしたものだったりするので、数よりも手間はかかってないんですよ。手抜きですみません」
「手抜きじゃなくて、機転が利くんだろ。すごい才能だよ」

 拓馬さんは私を見上げ、にこりと微笑む。この笑顔を空気を強張らせたくない。

 だけど、ちゃんと言わなきゃ。これからはふたりで解決すると決めた。

「今日、会いました。拓馬さんのお父様に」
「えっ」
「と言っても、自己紹介もせずに終わりましたが。佐野さんが一緒にいたので、おそらくそうだろうなって」

 私は淡々と言って、拓馬さんの向かい側に座った。すると、彼は握りしめた拳を一度テーブルに打ちつけた。

「また俺がいないときに! 親父はなんて!?」

 前のめりになって尋ねる拓馬さんが私の答えを聞いたら、憤慨するに決まってる。でも、事実をきちんと私の口から伝えるべきだともわかっているから、せめて私は冷静につとめた。

「財産目当てのしたたかな女だって言われました」
「……っ、なにを勝手なこと!」
「拓馬さん、落ち着いて。私も腹が立ってすぐ否定したんです。だけど、事実であろうとなかろうと世間の人はそういう目で見るんだって返されました。私……なにも言えなかった」

 あのときの悔しい思いが蘇る。
 真実と現実とはギャップがあるのだ、とまざまざと思い知らされた。

「そのうち拓馬さんの周りも同じような噂を囁き、肩身が狭くなる」

 刹那、頭からすっぽりと温かな腕で包み込まれ、ハッとした。

 私は知らない間に俯いていたみたいだ。『冷静に』と自分に言い聞かせていながら、こんなにも視界が狭くなっていた。

 目の前にいた彼が、私のすぐそばまで来てくれたことさえも気づかないくらいに。

 きゅっと強めに抱きしめられ、私はゆっくり瞳を閉じた。

「拓馬さん。そんなの、つらくないですか……?」

 このやさしい人が他人に糾弾され、傷ついて疲弊する姿を見たくない。

「私は前も言った通り、拓馬さんを犠牲にしてまで――」
「真希」

 私の言葉を凛とした声が遮った。
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