捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 私は彼から顔を背け、視線を落としたまま素通りしようとした。しかし、すぐに手首を掴まれ、逃げられなくなる。

「放して」
「断る。だって放したらまた逃げる。……そうだろ?」

 即座に言い返され、私は押し黙って瞳を揺らした。
 無意識に助けを求めるかの如く、理玖にもう片方の手を添えた。

 私だって、二年くらい前までの自分なら、どんな困難だって簡単に逃げ出したりはしなかった。
 でも、今の私はあの頃と違う。なにを差し置いても守りたいものがある。

 私は理玖を片手で抱きしめ、ぽつりと零す。

「逃げてません。私はただ自分の道を進んだ。それが、あなたとは別の道だっただけ」

 まさか、一瞬でも再び彼とこうして〝道〟が交錯するとは思わなかったけれど。

 私の声は、彼の心に届いただろうか。

 彼は私の手を離すでもなく、なにも言わぬまま静止していた。
 私たちの間には、虫の鳴き声だけが響いている。どちらも黙して語らず、その時間が長くなるにつれ、ますます気まずくなっていった。

 どのくらい経ったか。もう私は冷静ではない状態だからわからない。

「その子は何か月?」
「……七か月になります」
「真希の子?」

 ようやく沈黙を破った彼の言葉に、私は激しく動揺する。

 自分の鼓動が尋常じゃないほど大きく速いのがわかる。手のひらの汗がすごい。理由は残暑なんてものじゃない。
 それを理解しているからこそ、私は下手に口を開けない。

 黙りこくる私に追い打ちをかけるように、彼は改めて言い直した。

「真希と……俺の――だね?」

 彼は私を疑いもせず、まっすぐに見つめて言い切った。

 胸が詰まる。

 うまくやりすごさなきゃと思うのに、すんなりと声が出そうにない。せめて、逃げずに彼の瞳と向き合わなければ。でないと、揺れてる心を見抜かれる。

 私はゆっくりと視線を上げていく。質のいいネクタイの結び目までたどり、意を決して彼の顔を見た。刹那、以前と変わらぬ美しい双眸に捕まった。

 理玖を見るたびに、いつも頭を掠めていたのは彼の存在。どうやっても記憶から消すことなどできない。

 私はいったいどの感情を優先させていいのかわからず、戸惑いながらも彼と対峙した。

 そして、一瞬にして私の脳内は約一年半前へと遡る――。


   * * *

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