捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
「いずれ離れなければならないのなら、早々にけじめをつけたほうが傷が浅いという意味です。そのくらい察してください」
「私がどう感じるかなんて」
「あなただけの話じゃないですよ。彼にとっても、です」

 私の言葉を遮って放たれた声は、やたらと柔らかく、かつ力強かった。

 思わずビクッと肩を震わせてしまった私は、ついに動揺を露わにしたと自覚し、慌てた。

「彼だってひとりの人間だ。一時でも惹かれた女性と別れれば傷心するでしょう? その傷をいかに軽く済ませられるか、という話です」
「……どこまでいっても別れる前提なんですね。これ以上、お話しするのはお互いに時間の無駄のようですので」

 どうにか態勢を立て直し、気丈に振る舞ってみせた。
 佐野さんの横を素通りして立ち去った直後、信じがたいフレーズが耳に届く。

「拓馬さんには婚約者がいらっしゃるんですよ」

 頭で考えるよりも先に、ピタッと足が止まっていた。

 動けずにいる私の隣に歩み寄ってきた佐野さんが、声のトーンを落としてさらに言った。

「より正確には〝近々婚約者になる〟方が」

 佐野さんを見上げる。彼はやっぱり無表情で、私の反応をどう捉えているかもわからない。

 私はぎゅっと唇を噛む。

「おそらく、ここ一週間ほどご多忙なんじゃないですか? 正式な婚約へ、お打合せがあるのでしょうから」

 胸の奥がざわつく。佐野さんの指摘に心当たりがあるせいだ。
 彼の言う通り、ちょうどこの一週間から会えなくなった。

 ぐるぐるとドツボにハマっている私は、さらに追い込まれる。

「まあ、気持ちのない政略結婚と言われれば近いですが、どうやらお相手のほうは違うみたいですし。会社の利益になって妻も自分を愛してくれそうならば、拓馬さんも選択はひとつしかないと気づいていると思いますよ。とても聡明な方なのでね」

 物語でよくあるやつだ。今はビジネス婚とでも言うのかな。あれって、本当に現実にある話なんだ。

 どこか他人事みたいにそう思って、しばらく茫然と立ち尽くす。

 それから少しして、ぽつりとつぶやいた。

「私は、彼の口から直接聞くまでは……なにも変わりません」

 そう。なにを言われても聞かされても、私の根本の想いが覆るわけじゃない。

「そうですか。それは構いませんが、拓馬さんから直々に婚約者の報告があった暁には、決して縋りつかないでくださいね」
「なっ……」
「そうでしょう? 彼が真実を伝え、終わろうとしているのにあなたが引き留めれば、やさしい拓馬さんはより苦しむだけですから」

 私は悔しさのあまり、手のひらに爪を食い込ませた。

 どうやっても言い負かされる。とにかくこの場を離れよう。ひとりになりたい。

 私が再度、一歩踏み出したとき、佐野さんに呼び止められる。

「宇川さん」

 キッと敵対心丸出しで振り返ると、彼は穏やかな表情で続けた。。

「よければご自宅までお送りいたしましょうか。柄の悪い元恋人の心配もあるようですし」

 元恋人って……。光汰とのいざこざまで知られているの?

 私は目を剥いて絶句していたが、我に返って厳しい視線を送りつけた。

「結構です!!」

 最後には大きな声になってしまったが、周りの目なんてどうでもいい。
 私は大きな歩幅でずんずん歩き、駅へ向かった。
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