捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 私は玄関に入った瞬間しゃがみ込んだ。

 自宅に着くまで、何度も心の中で『気にしない』ってつぶやいてた。
 そうしなきゃ、背後まで迫っている闇に呑み込まれそうで。

 佐野さんの存在や言っていたことは嘘じゃないんだろう。

「婚約者……か」

 会社の繁栄のための結婚……。

 そりゃあね。私にはなんのメリットもないわけだから。
 だからか。こんなに打ちのめされているのは。勝てる武器がいっこも思いつかないや。

 ショックが大きすぎて、逆に笑いが零れた。

 互いの気持ちだけで結ばれるのが至極当然だと思っていた。
 それが自分の世界の常識とも知らずに。

 将来へ大きく期待されている人は、簡単に自分が選んだ相手と一緒になれないのだ。

 せめて……彼のプラスになれると胸を張って宣言できるものが私にあればなあ。

 生い立ちは普通。実家は山梨で父は役場で働いていた。
 母は近所でパートをして、大学四年の妹とはそれなりに仲がいい。

 私は料理専門学校を出て、料理を教える講師として勤めていて……特技なんていうものは、特にない。

 平凡だ。けれども、そんな自分や毎日に不満を抱きもせず、穏やかに日々を送っていた。

 こんなふうに、自分になにか特別な肩書きや能力があれば……なんて欠片も考えることもなく――。

 ひとりの人と一緒にいるために、家柄や才能を欲するなんて滑稽な女だろうか。

 ゆらりと立ち上がって、ようやく部屋に足を踏み入れた。
 バッグを無造作に置いたとき、スマホがちらっと視界に入る。

 今日の出来事を報告すべきかな。だけど、正直怖い。
『拓馬さんの秘書が会いに来た』と言ったあと、彼は私につくのか否か。

 佐野さんのニュアンスだと、拓馬さんの相手はまだ正式な婚約者ではなさそうだ。
 それでも今の私は、真実を突きつけられるのが怖くて、電話をかける勇気はなかった。


 夜も更けた頃、どうしてもひとりでは抱えきれなくて彼にメッセージを送ってしまった。

 ただひとこと、【会いたい】と。
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