捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
 一度アパートへ戻り、早番のためバタバタと着替えを済ませて出勤する。

「お、珍しくギリギリだねえ。おはよう」

 ロッカールームに駆け込むなり、すでに準備を終えていた敦子がにやけ顔で言ってきた。

「おはよ……」

 敦子の思考はお見通しだ。

 実際、私は朝帰りをした。だけど、さすがに今朝の怒涛の出来事までは気づくわけない。

 だから私は余計な反応をせず、淡々としていた。
 ここで私情を晒せば、絶対にこのあとの仕事に影響するから。

「先に事務所行ってるね」
「うん。すぐ行く」

 敦子がいなくなると、ひとりきりになった。

 まだ数時間前の記憶は当然鮮明に残っていて、油断すると意識をそっちに引っ張られてしまう。

 私は少し強めに首を横に振り、ぎゅっと閉じた目を開くと同時に気持ちを切り替える。

 ロッカールームを出てすぐ隣の事務所に一歩入った瞬間に、なにか不穏な空気を感じ取った。挨拶しようとしていたのも咄嗟に躊躇し、口を噤む。

「えっ。ダメになるかもしれないってどういうことですか?」

 ひとりのスタッフが、店長に真剣な顔つきで問いただしている。

「どうしたの?」

 私はこっそりとみんなが集まっていたところに合流し、敦子にひそひそと尋ねる。

「あ、真希。なんかね。ほぼ確定していたはずの夏の目玉イベントが急に白紙になったとか」
「イベントが白紙に?」

 きょとんとしていたら、ホワイトボードの前でさっきの子が店長に泣きついていた。

「ずっと温めていた企画で、今回やっと先方に了承いただけたのに! なんでこんな突然に……」

 どうやら彼女の発案らしい。店長に切実に訴えかけているのを見ると、かなり気合いを入れていた様子だ。
 詳細がわからずとも、彼女の雰囲気だけで胸が痛くなる。

「じゃあ、別の方面へ依頼しなおしてみたら……」

 私たちの横にいた別のスタッフが提案するも、店長が浮かない表情で小さく頭を横に振った。

「お願いしていたのは左右田屋よ。いまさらほかは考えられないし、仮に次に声をかけたメーカーの職人が承諾してくれても、そのあとで左右田屋の代わりだったなんて知れたら……」
「左右田屋……?」

 思わずぽつりと漏らしていた。

 今の私は〝左右田〟ってワードに敏感になっている。
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