捨てられたはずが、赤ちゃんごと極上御曹司の愛妻になりました
「私ここ数日考えてわかったのよ。拓馬さんはあなたの存在を伏せていたけど、それはたぶんそうしてでも私と婚約したいってことだって。だってあなた、平凡だもの」

 彼女は私の横にぴたっと寄り添って、私が洗っていたイカをさっと取っていく。まな板にイカを置き、包丁で一度タン!と軽快な音とともに輪切りした。

 そして、艶やかな唇をゆっくり開く。

「なので、宇川さん。今後も庶民の料理を教えてくださいよ。そうしたら、彼も同じ料理を作れるなら仕事の面でも役立てる家柄の私を選ぶはず。結婚するなら付加価値があるほうがいいに決まってるもん」

 にっこり顔で言い終えると、左右田さんは再び手もとに視線を落として包丁を動かす。私はというと、手も動かせなかった。

「あ。やっぱり今のなし。どうせなら拓馬さんには一流の料理を召し上がっていただきたいし。覚える必要性はないわね。そう思わない?」

 その間に、手際よく切り終えた左右田さんが、ふいに私のもとへやってきて顔を寄せる。

 びくっと肩を震わせた瞬間、彼女は私が出しっぱなしだった水を止め、ぽつりと耳もとでつぶやく。

「そうそう。一応我が左右田屋が一時でも、ともに仕事をするのに相応しいかどうかも見ていたんだけど」
「その話っ……」
「宇川さーん。エビの皮むき終わりましたあ」

 話の途中で声をかけられ、はっと我に返る。ふたりの生徒はいつも通り、楽しそうな雰囲気で私の指示を待っていた。

「あ、えっと、じゃあ次はお米を三合洗って……」
「わかりました! ザルとフライパン持ってこよ」

 動揺を顔に出さぬようにして次の工程を口にすると、すでに慣れているふたりはパッと行動に移してくれた。

 調理台の前には私と左右田さんのふたりきり。

 左右田さんは手を洗いながら、なにげない会話でもするように言う。

「私がひとこと言えば企画を続行させてあげられるのよね」

 左右田さんの横柄な態度は面白くはないけれど、原因は私が拓馬さんと個人的な付き合いをしていたせい。拓馬さんと企画の件は別のはず。

 まずはイベントの協力が先だから、理不尽に思うことを言われてもここは聞き流すのがベスト。

「……お願いします。涼菓の企画はスタッフが一生懸命準備していて」

 私は周りに気づかれない程度の声で頼み、頭を下げた。

「じゃ、ひとつ条件出すわ」
「条件……? って、なんですか」

 訝し気になって聞き返すと、彼女はやたらと柔らかな微笑を浮かべる。

「私たちが正式に婚約するのに邪魔だから、私たちの前から消えて」

 にっこり顔と言葉の内容がちぐはぐで、恐怖すら感じた。

「あ、もちろんこの教室に左右田屋がかかわるんだから、ここも早く辞めてね。左右田屋の職人に近づかれるのも嫌なの」

 さらに追い打ちをかけてくる彼女は、言い終えるなり〝左右田屋の令嬢〟の表向きの仮面を被り、戻ってきた生徒ふたりとなにやら話をしている。

 私が茫然と三人を眺めていると、左右田さんがくるりと私を振り向いた。

「宇川先生。さっきのお願い、大丈夫ですよね?」
「……大丈夫です」

 よそ行きの声のトーン、仕草、表情の作り方。私はついさっきまで全然気づかなかった。

 彼女の完璧な使い分けを目の当たりにし、その講義時間は平常心を保てず、ミスをしないのが精いっぱいだった。
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