極上社長からの甘い溺愛は中毒性がありました
『学生の頃に少しだけ習ったんだ。気づかなくて、ごめんね』
『いえ……』
彼の表情からも、ゆっくりと確認しながら手を動かす仕草からも、優しさを感じられた。それが嬉しくて、畔もゆっくりと手を動かそうとした。
が、男の顔が何か気づいたように1度止まった。
『ごめん。電話だ………気を付けて帰って』
『ありがとうございました』
畔がそう手話をすると、彼は手を上げて病院の出口へと小走りで行ってしまった。
畔はソファから立ち上がったまま、しばらくの間、彼の背中を見つめた。
どこでもある、ただのちょっとしたトラブル。そして、人生においてたった数分だけの出会い。
そんな些細な出来事なのに心が揺れるのを畔は感じた。
彼と話してみたい。名前は何というのだろうか。また会いたい。
そう思えたのに、畔は彼を呼び止める事が出来ないのだ。
自分の弱さにギュッと拳を握り、もう見えなくなった大きな入り口を見つめる。
欲しいものが買ってもらえなかった子どものように、きっと悲しげな顔をしていると自分でもよくわかった。
『おいっ……何、ボーッと立ってんだ?』
『………あ、叶汰』
畔の肩を叩いた後に畔の視界に顔を出したのは、叶汰だった。怪訝な顔で畔を見ている。
畔は、彼に『何でもないよ』と伝えると、叶汰は『じゃあ、控え室行くぞ』と、前をスタスタと歩いた。
畔はその後についていこうと一歩だけ足を進めた。が、すぐに止まって、足の手当てをしてくれた彼が去って行った方をもう一度だけ振り返った。
もちろん、そこにあの男性の姿などなかった。
ガラス張りの玄関が夏の日差しを受けて輝いている姿があるだけだった。