クールな社長の不埒な娶とり宣言~夫婦の契りを交わしたい~
――暑っ。
ムッとする熱気に眉をひそめた紫織は、じとじととした薄暗い廊下を足早に進んだ。
突きあたりには給湯室がある。
ドアノブを回すと、すえた臭いが鼻を突いた。
くすんだ流し台。まだらにシミがある壁。そして、剥がれた床。
なにもかもが汚く淀んで見えるのは、梅雨空のせいだけではないだろう。
そもそもが古いビルなので、小まめに掃除をしても元の壁が何色だったのかもわからないし、どんなに磨いたところで、もう二度と輝くことはできないのだ。
グラスふたつ並べて氷を入れ、冷蔵庫から取り出したボトルコーヒーを注ぐ。
ひとつはコーヒーだけ。
もうひとつのコップにはコーヒーを少なめにして牛乳とガムシロップを入れる。
紫織はアイスでもホッとでもブラックコーヒーが苦手だ。
多分この好みは一生変わらないだろう。
廊下を戻りながら、ふと夕べ見た夢を思い出した。
『私、お金のない人とは結婚できないの。わかるでしょ? 百年続く呉服屋の一人娘なのよ、私は』
――我ながら酷い言い草だったわね。
懐かしさと共に、紫織はフッと口元を歪める。
あれはいったい今から何年前になるのだろう。
随分昔のことなのに今更そんな夢を見てしまうのは、紫織の心の中を支配しているのが、不安という感情だからだろうと思った。
藤村紫織。独身、御年二十九歳。
この朽ち果てた昭和の残骸のビルのように、今にも崩れ落ちそうな『有限会社花マル商事』に勤めて四年になる。
「お疲れさまでした、課長」
「サンキュー」
コーヒーを受け取ったのは紫織の上司、室井課長。
白髪がちらほら見え始めた御年四十歳。バツイチではあるが彼もまた独身だ。
事務室にいるのはふたりだけだった。
ネズミ色のデスクが並んでいるが、どれも空席になって久しい。
ラジオから響いているのは懐メロで、割れた音がこの無駄に広いだけの空間にやけに馴染んでいる。
ムッとする熱気に眉をひそめた紫織は、じとじととした薄暗い廊下を足早に進んだ。
突きあたりには給湯室がある。
ドアノブを回すと、すえた臭いが鼻を突いた。
くすんだ流し台。まだらにシミがある壁。そして、剥がれた床。
なにもかもが汚く淀んで見えるのは、梅雨空のせいだけではないだろう。
そもそもが古いビルなので、小まめに掃除をしても元の壁が何色だったのかもわからないし、どんなに磨いたところで、もう二度と輝くことはできないのだ。
グラスふたつ並べて氷を入れ、冷蔵庫から取り出したボトルコーヒーを注ぐ。
ひとつはコーヒーだけ。
もうひとつのコップにはコーヒーを少なめにして牛乳とガムシロップを入れる。
紫織はアイスでもホッとでもブラックコーヒーが苦手だ。
多分この好みは一生変わらないだろう。
廊下を戻りながら、ふと夕べ見た夢を思い出した。
『私、お金のない人とは結婚できないの。わかるでしょ? 百年続く呉服屋の一人娘なのよ、私は』
――我ながら酷い言い草だったわね。
懐かしさと共に、紫織はフッと口元を歪める。
あれはいったい今から何年前になるのだろう。
随分昔のことなのに今更そんな夢を見てしまうのは、紫織の心の中を支配しているのが、不安という感情だからだろうと思った。
藤村紫織。独身、御年二十九歳。
この朽ち果てた昭和の残骸のビルのように、今にも崩れ落ちそうな『有限会社花マル商事』に勤めて四年になる。
「お疲れさまでした、課長」
「サンキュー」
コーヒーを受け取ったのは紫織の上司、室井課長。
白髪がちらほら見え始めた御年四十歳。バツイチではあるが彼もまた独身だ。
事務室にいるのはふたりだけだった。
ネズミ色のデスクが並んでいるが、どれも空席になって久しい。
ラジオから響いているのは懐メロで、割れた音がこの無駄に広いだけの空間にやけに馴染んでいる。