記憶奏失
 幾分かして二人がそれに気付くと。
 とりあえず何か弾いてみてくれるかと先生が提案したことをきっかけに、ひかりは飛んで喜びながら椅子に座った。

 そんな、喜びも束の間。
 蓋を開けた瞬間、不思議な緊張感に包まれた。
 ひかりが言い知れない重圧を感じるのは、彼女が自宅以外では一切弾いたことがないからに他ならなかった。

 小学校の休み時間、あるいは音楽の授業なんかでその機会があれば、また感じ方も変わったことだろう。
 しかし、彼女は昔からあがり症で、人前で何かをすることを極端に避けるような子だった。
 お遊戯会。運動会。発表会。
 そのどれでも、脇役か目立たない種目だけに徹してきた。

 それでも。
 先生を唸らせるのには、満足過ぎる結果を残せたのも、また事実。
 得意の即興技術を前に、先生はつい言葉を失って聴き入ってしまっていた。

 こんなことがあるのか。
 楽譜というものの見方も知らず、こんなことが可能なのか。
 出来たとして、こんなに幼い、小さな手で、普通なら出来ようものか。

 先生は、ひかりのレッスンを自ら進んで買って出た。

 しかし——



 きっかけは、些細な事だった。
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