ダチュラの咲く夜に
校庭から聞こえる野球部の掠れた掛け声、机や床から香る木材の匂い、留め忘れられ、風に揺れる日に焼けたカーテン。

将来なんて考えられなかった、正確には考えることを放棄していた15歳の僕らは無敵だった。
今を楽しむことしか頭になくて、今が、今だけが全てだった。

僕と五十嵐菜月は中学で初めて出会った。
僕の住んでいた地域は3つの小学校が中学校で1つになる。
一学年100人を容易に上回る学校の中では、同じクラスや部活に入らなければ名前と顔は一致しないし、実際僕も中学3年で同じクラスになるまで彼女の存在を知らなかった。

僕は勉強もそれなりにできたし足も早かったし、友達も多かった方。
顔も不細工の部類には入らなかったと思う。
所謂、普通の中学生。

スクールカーストの中では二軍に所属し、誰かと特別仲良い訳ではなく悪い訳ではなく、必要最低限のサークルの中で息をしていた。

彼女はどちらかというと僕とは正反対の人種だったと思う。

第一印象は「うるさい女子」。
声がやたら大きくていつも笑ってて、彼女の周りには常に人が集まってた。

教員はスクールカーストの上位層には甘い。一軍の奴らは指示に従わないから、生徒に指導できない姿を他の生徒に見られたくない。
だから最下層の無抵抗な生徒にしか指導はしないと本で読んだことがある。

そうでなくとも彼女はコミュニケーション能力が高く、教員からも好かれていた。
みんなから好かれ、明るく、人生を謳歌している。
平凡すぎる僕とのこの差はなんだ。
神様って不公平だなと思う。
別に羨ましくなんてないけどね。

彼女と初めて話したのは3年の7月、中学最後の夏休みの直前だった。
所属していた図書委員会のミーティングの後、下校途中の僕が生徒手帳を図書室に忘れた事に気づき、取りに戻った時のことだ。

手帳自体はどうでもよかったが、手帳の中には何かあった時のためにと入れておいた現金千円が入っている。
15歳の中学生にとっては大金だ。

17時を少し過ぎ、殆どの生徒が下校した後の学校は非常に不気味だった。
いつもは可笑しく笑える美術室前に飾られた下手くそな自画像も、まるでこちらに笑いかけ、今にも動き出しそうである。

締めの甘い蛇口からポタン、と落ちる水音も今の僕にはホラー音楽だ。

どうして図書室は最上階に位置するのだ。1階に作ってくれればよいのに。
大量の本を持ち運びするのも大変だろうにと、気を紛らわせようと不満な言葉を頭の中で回してみる。

やっと最上階まで辿り着くと、薄暗い廊下の先で図書室の明かりだけがついている。
どうやら委員長が電気を消し忘れたようだ。

図書室へ入り、先程自分が座っていた図書カウンターに向かう。

本棚の角を曲がった瞬間、「ひっ」という引きつった声をあげてしまった。一番奥の窓側の机に、座っている五十嵐が見えたのだ。

寿命が縮まるとはこういう時に使うのだ、と冷静さを取り戻すことに必死だった僕はどうすればよいのかわからず、数秒思考停止してしまった。
長い数秒だったように感じる。

「何見てんのよ」と睨まれるのではないか、このまま走って逃げようか。いや別に何も悪い事をした訳じゃない。逃げたら余計に気持ち悪がられるのではないか。
だいたい、どうして僕が逃げなきゃいけないんだ。そうだそうだ、勝手に図書室に残ってるのは彼女の方だ。

「忘れ物?」
沈黙を破った彼女の声は、柔らかく、拍子抜けをしてしまった。
雛壇に座った芸人が一斉に前にズッコケるような、そんな感じ。

「あ…うん、そう。生徒手帳、忘れちゃって」
随分と間抜けな声を出してしまったのは13年たった今でもよく覚えている。

「へぇ、忘れ物とかするんだ、凄くしっかりしてるイメージだったからさ」
クスッと笑い、綺麗な細長い5本の指を口元にあてた。確かピアノを長くやっていると誰かが言っていたっけ。

どうして、クラスの大勢の中の彼女と、2人きりの彼女とでは、こう印象が変わるのだろうか。

「五十嵐さんは、勉強?」
「そう、あたし要領悪いからさ、人の倍は頑張らないとみんなと同じレベルになれないんだよね。
あ、久保田君数学得意だったよね?ちょっとここ教えてくれない?」
初めて話す異性に馴れ馴れしさを感じさせず、距離をつめる方法はどこで習ったのだろうか。

僕は彼女の向かいの席に座り、彼女はノートを僕の方へ向けた。
達筆な文字のサイズは均等で、ポイントはカラーペンで綺麗にまとめてある。

「へぇなるほど、そう言う事か。あたし数学って本当嫌いなんだよね。
点Pは一生動くなって思うし円周率なんて3でいいと思う。」

俺もそう思う、なんて笑いながら細くした目の隙間から、ノートにペンを走らせる彼女を覗き見る。

左瞼に小さなほくろを見つけ、可愛い、なんて思った。その時、

「おーもう下校時間過ぎてるぞー早く帰れー」
屈強な生徒指導教員、坂本のささくれのような声で一気に現実に連れ戻される。

「さかもっちゃん、今ちょうど帰ろうとしてたの。あんま怒るとシワ増えるぞー」

学校一強面の体育教師によくそんなこと言えるな、
一瞬で帰り支度を終えた僕の隣で彼女はゆっくりとペンを筆箱にしまう。

「ったく、もう暗いから、気をつけて早く帰りなさい」
「ほいほぉーい」

彼女とは家は逆方向で、校門を出てすぐに別れた。
もっと話したかった、なんて思ってる自分が何だか恥ずかしくて、でも、彼女もそんな風に思ってくれてたら嬉しいな、なんて淡い期待なんかして、何度か周りを見渡すフリをして振り向いたりしたけど、彼女は折りたたみ式の携帯電話を取り出し、友人と楽しそうに会話をしているようだ。

自分は何をガッカリしてるのだ。たまたま初めて話した女子と会話が弾んだだけじゃないか。
それに彼女には男友達もたくさんいるし、自分もその中の人になったに過ぎないしきっと彼氏だっているだろう。
今電話の向こう側にいるのは、その彼氏かもしれない。

そんな事を考えながら帰宅した僕は、玄関で絶句した。
「生徒手帳、忘れた。」
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