君と恋を始めるための温泉旅館
だから、大学進学と同時に都会へ逃げ出した。

不安だらけのひとりの世界は、一歩外へ出れば、広がる光景は全てキラキラしていた。

徒歩数秒で欲しいものは手に入るし、昼も夜もない明るい街並み。

卒業してからは一般的な企業に就職して、普通に働いて、同僚の男性と五年付き合って、適齢期になった今、結婚秒読み。

波はないけれど、そんな幸せで平凡な人生。

どこかで一億回聞いたような、当たり前の女の幸せ。

このキラキラだらけの街で、私はもうひとりじゃなかった。

その、はずだった。


それなのに、私は今、大嫌いだった土地を自らの足で踏みしめている。

いざという時に頼れる場所が、この嫌いな街しかないというのは、皮肉なものだ。

倉金雫、二十七歳。

順風満帆だったはずの私が、そんなド田舎にまいもどってきたのには、一応それなりの理由がある。


さわやかな初夏の風が吹く、六月のことだった。
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