ずっと一緒に 〜後輩男子の奮闘記〜
千波さんは、まだ難しい顔をしている。
デスクにそうっとカフェオレを置くと、ハッとしてこっちを向いた。
「えっ、あれっ?もうこんな時間?」
「本田さん、集中してましたね」
周りの人達は、みんなもう帰っている。
「ごめん、待たせてたよね、私。声かけてくれて良かったのに」
「いえ、急いでないので大丈夫です。なにか手伝えることありますか?」
「んー……ちょっと相談のってくれる?」
千波さんは資料を出して話し始めた。
しばらく2人で話す。
話題は仕事のことだから、真面目に。
真剣な表情の千波さんは綺麗だ。
時々目を奪われてしまうけど、頑張って仕事の話に戻った。
普段のおしゃべりもいいけど、仕事の話ができるのも嬉しかったし、楽しかった。
「うん、ありがとう須藤君。相談して良かった」
最後に千波さんはこう言ってくれた。
「……役に立ちましたか?」
「もちろんだよ。私には無い視点の話も聞けて、おもしろかった」
にこにこしている。
……良かった。ホッと胸をなでおろす。
ちょっとは『ただの後輩』から進歩しただろうか。
「じゃあ帰ろっか」
「はい」
2人で帰り支度をして、電気を消して、エレベーターに乗る。
千波さんが、俺の手元を見て、嬉しそうにしている。
「それ、使ってくれてるんだね」
手袋のことだ。
「あったかいです。色もいいし。ありがとうございました」
俺も顔がほころんだ。
2人で笑い合う。
……幸せだ。
この瞬間がずっと続けばいいのに、と心底思った。
「そういえば、須藤君、今日チョコレートもらってないんだって?」
ドキッとして横を見ると、千波さんの無邪気な目が見上げている。
「結構な噂になってたよ。私も聞かれた」
「え、またですか?」
「まあほら、隣の席だしね」
「すいません、ご迷惑をおかけして」
「ああ、いいの、気にしないで。皆さんでどうぞっていうのはもらってたよって言っといた。でもねー、彼女達にはそれじゃ意味ないもんね」
可愛いよねえ、と笑っている。
チョコを受け取らない原因が自分だなんて、露ほども思っていないんだろうな。
相変わらず、『ただの後輩』なんだ。
エレベーターは1階に着いて、外に出た。
千波さんは「わっ寒い」と言ってるけど、俺は感じない。それはもうガチガチに緊張しているからだ。
「最近はさ、ホワイトデーでもチョコレートを!っていうのもあるから、まだしばらくは幸せだよねー」
「本田さん、ほんとにチョコが好きなんですね」
「うん。でも、最近は自分で買うより須藤君にもらう方が多いんだよ」
ああ、だから俺はチョコ好きだと勘違いされたのか。思わず笑ってしまう。
「あ、笑った」
千波さんが嬉しそうに言う。
「なんかずっと硬い顔してたから。そんなに難しい相談があるのかと思ってた」
特に何も言っていないのに、相談があると思われたらしい。
「どこか寄ってく?あ、でも今日はどこも混んでるかな、バレンタインだし」
一緒に食事ができるのは嬉しいけど、今日は多分喉を通らないに違いない。
「お腹空いてない?」
顔を覗き込まれる。可愛いから、余計に緊張する。
「だ、大丈夫です。とりあえず電車乗りましょう」
駅に着いて、ホームに向かう。
鞄を持っているから助かってるけど、手ぶらなら右手と右足が一緒に出ているに違いないと思った。
いつも通り家まで送って、別れ際にチョコを渡して告白する。
その予定だった。
隣で、千波さんは、今日中村さんにもらったチョコの話をしている。さすがは中村さんで、千波さんの好きなチョコを心得ていた。千波さんはにこにこだ。
「ホワイトデーのお返しは何にしようかな」
「中村さんて、あんこ好きですよね」
「そうそう、洋菓子より和菓子が好きなんだよね。あ、前に須藤君にあげた実家のお土産を送ってもらおうかな」
「いいかもしれませんね。おいしかったし」
「でしょう?じゃあそれにしよう」
電車が来た。
乗り込んで、隣に立つ。
告白して、気まずくなってしまったら。
これが隣に立つ、最後かもしれない。
……そうか。告白するっていうのは、そういうことなんだよな。
今更ながらそれを実感する。
この心地良い時間がなくなる。かもしれない。
……嫌だ。
俺の気持ちは、急速に勢いをなくしていった。
「須藤君?どうかしたの?」
隣から、千波さんが顔を覗き込む。
可愛い。
「急に暗い顔になっちゃったけど、大丈夫?」
この可愛さを独り占めできるんなら。
でも、拒否されてしまったら、この可愛さが俺に向くことすらなくなるんだ。
「もしかして具合悪いの?」
「……いえ、大丈夫です」
電車を降りて、歩き始める。
「須藤君、具合悪いなら無理して送らなくても……」
俺は、千波さんを振り返って、微笑みを作った。心配させないように。
「大丈夫です」
改札を出て、道路に出る手前で少し待つ。
緊張する余り、千波さんにペースを合わせるのを忘れていた。
千波さんが、小走りで追いついてくる。
「すいません」
「ううん。須藤君、歩くの速いんだね。いつも合わせてもらってるから知らなかったよ」
横に並んで、一緒に歩く。
「足長いし、当然だよね」
無邪気な笑顔を向けてくる。
この笑顔を、自分だけのものにしたい。
でも、今、無理矢理そうしてしまったら、この笑顔は俺の前から消えてしまう。
怖気付く、という言葉がぴったりのような気がした。
「で、何か話があったんでしょ?どうかしたの?なんでも聞くよ」
もう着いてしまうからか、千波さんが聞いてきた。
今の俺は、ただの後輩。
バレンタインデーに一緒に帰りたいと言っても『何か相談があるんだね』としか思われない。
皆さんでどうぞ、の義理チョコの相手。
「……これ」
千波さんのマンションの入り口。
いつものところで、鞄からチョコレートを出す。
「いつもお世話になってるので、お礼です」
千波さんは、チョコを手に取って、俺の顔と見比べている。
「え、チョコ?バレンタインの?私に?」
目がまん丸だ。可愛い。
「なんとなく、みんなの前では恥ずかしかったんで」
千波さんは『なあんだ』という表情で笑う。
「なにか相談があるのかと思った。あ、でも、みんなの前でもらったら横取りされちゃうしね。こっちの方が良かったかも」
そして、極上の笑顔を、俺にくれた。
「ありがとう、須藤君」
俺は、無言で頷くしかできなかった。
家に着いて、ドアを閉めて。
自分が情けなさ過ぎて。
そのまま玄関にへたり込んで。
しばらく、動くことができなかった。