ずっと一緒に 〜後輩男子の奮闘記〜
会計の時、千波さんは自分が出すと言ったけど、今日は俺が誘ったから、と強引に払った。
店を出てから「ごちそうさまでした」とぺこりと頭を下げる千波さんは可愛くて、その頭を撫でたくなった。
筒井さんの家で、千波さんの頭を撫でた感触を思い出す。
もう一度、と思うけど、起きている千波さんにそれをする勇気はない。
電車の中でも、千波さんのふわふわの髪は嫌でも目に入って、伸ばしそうになる手を押さえ込んでいた。
電車を降りて、隣を歩く。
「今日、おいしかったし、楽しかった。ありがとね、須藤君」
俺は、その笑顔だけでもう満足です。
「いえ、突然誘ったのに、OKもらえて嬉しかったです」
俺も笑顔を返す。
千波さんは、またじっと俺を見る。
「……どうか、しましたか?」
思わず聞いてしまった。
千波さんは、ハッとして、やっぱり目をそらした。
「あ、ごめんね。なんでもない」
まただ。うつむいて、顔が赤い。
やばい。抱き寄せたくなってしまう。
俺も、目をそらした。
「いや、ならいいんですけど」
気まずい沈黙。
すぐに、千波さんのマンションに着いてしまう。
そのすぐ手前の電柱に、見慣れない看板がくくりつけてあった。
『チカンに注意!』
俺が立ち止まってその看板を見ていると、千波さんも気付いて止まった。
「それ、昨日からあるの」
「……チカン、出たんですか?」
「そうみたい。注意喚起のお知らせが、昨日ポストに入ってたよ。あったかくなると出るんだよねえ」
普通の世間話みたいな口調で言ってるけど、俺は一気に心配になる。
「油断したら駄目ですよ」
「大丈夫だよ」
人事のように言う。
マンションに着くと、千波さんはいつもの所で立ち止まった。
「ありがとう。じゃあまた明日」
いつもの笑顔だ。
俺は、周りを素早く確認した。
千波さんのマンションは、セキュリティはしっかりしているけど、管理人はいない。
自動ドアが開いて、千波さんが入る時にチカンに押し入られたら、ひとたまりもないのだ。
「あの、部屋の前まで送ります」
俺は、心配する理由を説明した。
千波さんは、ちゃんと聞いてはいるものの、やっぱり人事だ。
「大袈裟だよ。私なんか襲う人いないよ」
笑って言う。
いや、いる、ここに。そういう意味で1番危ないのは俺か。
「心配なんで。せめてあの看板がなくなるまでは、送らせてください」
「大丈夫だって」
余りの呑気さに、少しイラつく。
「行きますよ」
こういう時は、少し強引にしないと駄目らしい。
俺は一歩進んで、1枚目の自動ドアを開けた。
千波さんは、ぽかんとしている。
「本田さん、行きますよ」
「あっ、はい」
2枚目の自動ドアは、千波さんがいないと開かない。
千波さんは暗証番号を押して、自動ドアを開けた。
「何階ですか?」
「え、あの、5階」
エレベーターのボタンを押す。
千波さんは、うつむき加減に俺の後をついて来た。
やばい、それも可愛い。
やっぱり俺が一番危険かもしれない。
今だって、狭いエレベーターの中、千波さんがすぐ側にいて、抱きしめてしまいたい。
我慢してる間に、エレベーターは5階に着いてしまう。
「どこですか?」
「あ……ここ」
エレベーターを降りてすぐ、501号室だ。
千波さんが、鞄から鍵を出す。
「あの、ありがと……」
ドアの前で、うつむいている。
「入ってください」
「え?」
「本田さんが入って、鍵を閉めたら、俺は帰りますから」
「あの、でも」
「大丈夫です。ドアを開けて無理矢理入り込んだりしません」
「そんな……須藤君は、そんなことしないってわかるくらいには知ってるよ」
信用し過ぎだ。
本当は、中に入って、抱きしめたい。髪も、背中も、ほっぺたも、体中に触れて、キスもしたい。その先も。
「あの、本当に、ありがとう」
千波さんが鍵を開ける。
「気をつけて、帰ってね」
「お疲れ様でした」
笑顔を残して、ドアを開けて、中に入って。
一瞬の間の後、カチャ、と、鍵をかける音が聞こえた。
俺は、エレベーターに向かう。
顔がニヤける。
ここまで来れたことが、凄く嬉しかった。
食事に誘えた。OKをもらえた。
一緒にハンバーグを食べた。
部屋の前まで送ることができた。
有頂天になりそうになって、ハッと気付く。
迷惑じゃなかっただろうか。
自分の、心配だという気持ちを押し付けて送ってきたけど、千波さんは本当は嫌だったんじゃないだろうか。
だからあんな、戸惑ってるような反応だったんじゃないだろうか。
どうしよう。明日会社で会ったらまずちゃんと聞いてみないと、と考えていたら。
エントランスで、スマホがブルッと鳴った。
千波さんからのメッセージだった。
ーーー今日は、部屋まで送ってくれてありがとう。おかげで安心できました。
これは、本当に千波さんからだろうか。
何回も見直していると、またメッセージが入る。
ーーー良かったら、次の時も、よろしくお願いします。
絵文字もスタンプもない、文字だけのメッセージ。
普段から、千波さんは文字だけのことが多い。
だから、このメッセージは、普通に送ってくれたもの。普段通りの、飾らない。多分、社交辞令ではないと思う。
脱力して、エントランスにしゃがみ込む。
良かった。迷惑じゃなかった。
ホッとした。
『次の時も、よろしくお願いします』
何度も読み返す。
次、はいつになるだろう。
人が来ると怪しまれてしまうと思い、どうにか立ち上がって歩き出す。
改めて、嬉しさが込み上がってくる。
ちょっとは前進できた。
近付けた、よな。
『次』を思い描きながら、俺は家に帰った。