昔飼ってた犬がイケメン男子高校生になって会いにきた話
葉月と翔はタクシーで莉乃のいる大学にやって来た。
校門の前でタクシーから降りると、土曜日にもかかわらず、大学生と思われる人たちがちらほら歩いていた。
「ここですか?」翔は傘を持ちながら目の前にある校舎を見上げて言った。
「うん。翔はここの大学に来たことなかったっけ?」
「はい。ここってお父さんが働いている大学でもあるんですよね? 俺は一度も来たことなかったけど、建物が大きいな。やっぱり高校とは違う」
「そりゃそうだよ。莉乃さんは授業がなければ研究室にいると思うから、とりあえず研究室に行ってみよう」
葉月と翔は研究棟に入り、階段を使って三階まで登った。そして研究室の扉の前まで来ると、葉月は緊張からか、すぐにノックができずに立ち止まった。
そんな葉月を見て、不思議に思った翔が「どうかしたんですか?」と訊いた。
「久しぶりに莉乃さんに会うんだって思ったら、ちょっと緊張しちゃって」
「じゃあ俺が代わりにノックしましょうか?」
「いや、大丈夫」
葉月は気持ちを落ち着かせるために一度深呼吸をし、ようやく扉をノックした。
返事を待ったが、何も応答がない。
「授業に出てるのかな」翔が言った。
「そうかもしれないね」
どうやら莉乃は研究室にはいないことがわかった。
「どこの講義室で授業をしてるのか、教務課に行って訊いてみよう」
早速、葉月と翔は教務課に移動し、事務職員から莉乃の授業が行われている講義室を聞き出した。
講義室の前まで来ると、マイクで話しているのか莉乃の話し声が聞こえてきた。
後ろの扉をそっと開けて中に入ると、たくさんいる生徒の前で、莉乃が教壇に立ち、授業をしている様子が目に留まった。
久しぶりに見る莉乃の姿は、授業中と言うこともあり堂々としていて格好よく見える。
葉月と翔は授業の邪魔にならないように、なるべく目立たない一番後ろの空いている席に座った。
「あの先生が莉乃さんですか?」翔が小声で葉月に訊いた。
「そうだよ」葉月も小声で返した。
「俺、昔莉乃さんと何回も会ったことあると思うんですけど、あんまり記憶にないんですよね。それにしても、大学の授業って初めて出たから、何かワクワクします」
翔は楽しそうな顔をしている。
本来の目的を忘れていそうで、葉月は大丈夫かと少し不安になった。
「とりあえず授業が終わるまで待ってようか」葉月がそう言うと、翔は静かに頷いた。
しばらく授業を聞いていると、莉乃が「はい、これで授業は終了です。出席用紙を提出して帰ってね」と言った。
周囲が騒がしくなり始めた時、葉月が「翔、莉乃さんのところに行こう」と言い、席を立って莉乃のいる教壇まで歩いた。
「はい」と翔は返事をして、葉月の後について行った。
教壇の前までやって来ると、莉乃に質問をしている生徒が何人かいた。これでは話しかけられないと思い、生徒の対応が終わるのを待った。
長らく待った後、最後の一人がようやく離れ、莉乃は一人になる。
その隙を見計らい、葉月と翔は莉乃に近寄った。
「莉乃さん」葉月が呼んだ。
莉乃が葉月を見ると驚いた顔をして、「葉月ちゃん!」と言った。
「久しぶりですね」
「久しぶりー。どうしたの? 何でここにいるの?」莉乃は嬉しそうに言った。
「えっと、莉乃さんに会いに来ました」
「私に会いに? そうだ、長谷川先生は大丈夫なのかな? 落ち着いたらお見舞いに行こうと思ってるんだけど」
莉乃は父が心配なのか不安そうな顔をしている。
「今日の朝に検査を終えて、今は手術中です。手術が終わるまで時間があったから、ここに来ました」
「ええっ、そんな大事な時に、ここにいても大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。病院で待っていても特にやることはないし」
「そっか、それならいいけど。無事に手術が終わるといいね。そうだ、こんなところで話すのもなんだし、研究室に行って話そうよ」莉乃がそう言うと、葉月は頷いた。
講義室から研究室まで移動する途中で、莉乃と翔はお互いに挨拶を済ませ、世間話をしながら歩いた。
研究室まで着くと莉乃が扉を開けて、「どうぞ入って」と言った。
莉乃に案内されたのは、先程葉月と翔が訪ねた研究室と違う場所にあった。
以前、莉乃は父と同じ場所で働いていたはずだが、どうやら場所が変わったみたいだ。
そうなると、現在あの研究室は父だけが使っていて、ここは莉乃だけが使っている別の研究室と言うことになるのだろうか。
何があったんだろう、と葉月は疑問に思った。
そう言えば父が前に、『准教授になれば自分の研究室を持てる』と言っていたから、あれから莉乃は准教授に昇任したのかもしれない。
そんなことを考えながら中に入ると、部屋の中央にある大きなテーブルが葉月の目に入った。
壁一面には本棚が置かれ、本棚にはびっしりと本が並べられている。窓際にある机を見ると、資料やファイルが乱雑に積まれていた。
莉乃に促され、葉月と翔は椅子に腰掛ける。
すると、研究室の扉を叩く音が聞こえた。葉月と翔はその音を聞いて扉に目を向けた。
立ちながら資料を見ていた莉乃が「はーい」と返事をすると、「莉乃ー。入るよ」と誰かが言う声がしたのと同時に、扉が開いた。
「えっ⁉︎」
研究室に入って来た人物を見て、葉月と翔は思わず声を上げた。
なんと扉の前には信じられないことに蓮見がいた。
「えっ! どうして二人がここにいるの?」蓮見は驚いて目を見張りながら言った。
「それはこっちのセリフだよ」
「あれ、知り合い?」莉乃が不思議そうに訊くと、翔は「学校の友達です」と莉乃に言った。
「へー! そうなんだ。こんな珍しいこともあるんだね。祐奈、とりあえず入りなよ」莉乃がそう言うと、蓮見は中に入った。
初めて聞いたけど、祐奈と言うのは蓮見の名前らしい。
「私たちは莉乃さんに会いに来たんだけど、蓮見ちゃんはどうしてここに?」
「私も葉月さんたちと同じ理由です」蓮見はそう言うと椅子に座った。
「俺たちと同じって、莉乃さんと蓮見は一体どう言う関係なんだ?」
「うーん……何でもいいじゃん」
蓮見は言いたくなさそうにしている。何か人に言えない事情でもあるのだろうか。
「何で言わないんだよ」
蓮見が何も言わないことに葉月と翔が困惑していると、莉乃が「実はね、葉月ちゃんと翔くんだから言うけど、この子はモモの生まれ変わ……」と言いかけて、「ちょっとストップ!」と蓮見が話を遮った。
「言ったら駄目なの?」
「駄目に決まってるよ、そんなこと」蓮見が嫌がりながらそう言うと、「残念、もうほとんど聞こえてるよ」と翔が言った。
もう手遅れだと思ったのか、蓮見はショックを隠しきれないようだ。
「蓮見ちゃんって、モモの生まれ変わりなの?」
蓮見は仕方ないと言わんばかりの顔をしながら、「はい」と言った。
「えー! そうだったんだ。何で今まで言ってくれなかったの?」
「それは……言いたくなかったからに決まってるじゃないですか」
ショックを受けている蓮見を見て、慰めたいと思った葉月は「そっか。でも、翔もハルの生まれ変わりなんだよ」と言った。
「え……?」
「そうなの? ただの友達じゃなかったんだ」
蓮見と莉乃は口々に驚きの言葉を発した。
「はい。だから俺、生まれ変わった後に気になって、葉月さんに会いに行ったんですよ。会いに行ったって言っても、つい最近なんですけどね」
「じゃあ、祐奈と同じだね。祐奈も高校生になってから私に会いに来てくれたもんね」莉乃がそう言うと、蓮見は頷いた。
「びっくり。翔と蓮見ちゃんはお互いにハルとモモの生まれ変わりってことを、今までずっと知らなかったんだよね? だとしたら、今日それが知れてよかったね」
翔と蓮見はそれを聞くと顔を見合わせた。
蓮見は嬉しそうにしていたけど、翔は困惑したような顔をしていた。
「それなら、もっと早く知りたかったな」蓮見は後悔したように言った。
「まさか蓮見がモモの生まれ変わりだったなんて━━今まで全然気づかなかった。まあそれを知っても何かあるわけでもないし、別にいいんだけど」翔は素っ気なく言った。
「えー、ひどい。昔たくさん遊んだ仲じゃん」
「そうだよ。二人はすごい仲良かったんだよ。河川敷でよく追いかけっことかしたりしてね」
「そうそう。じゃれ合ったりとかして」
悲しそうに言った蓮見のために、葉月と莉乃がすかさずフォローを入れた。
「いや、て言うか、もうその話はいいじゃないですか。それより、お父さんの話をしましょうよ。莉乃さんはお父さんが倒れた時にその場にいたんですか?」
きまりが悪くなった翔は、突然、話を逸らした。
「あー、はぐらかされた」
「まあまあ蓮見ちゃん。それで、どうなんですか? 莉乃さん」
葉月は不満そうにしていた蓮見を宥めてから莉乃に訊いた。
「私は、長谷川先生が倒れた現場には居合わせていなかったんだけど、後でその場にいた先生から話を聞いた時は本当にびっくりしたよ。長谷川先生、大丈夫かなってすごい心配した」莉乃はそう言うと、冷蔵庫からお茶を取り出し、コップにお茶を入れている。
「そうだったんですね」
「うん。きっと生徒の中にも何人か心配してる子はいると思うな。長谷川先生は人気がある先生だし」
「へえ。お父さん、人気があるんですね」翔が意外そうに言う。
「そうだよ。長谷川先生の授業はいつも定員越えしてるからね。きっと授業が面白くて勉強になるからだろうな。私も見習わないとなっていつも思ってるよ」
莉乃は父のことを心酔しているように見えた。
「そっかー。お父さんってすごいんだな」
話を静かに聞いていた蓮見が「お父さんって、翔くんのお父さんのこと? 大学の先生なの?」と訊いた。
「違うよ。葉月さんのお父さんのことだよ」
「なんだ、そうだったんだ」蓮見は興味なさそうにそう言うと、スマートフォンを操作し始めた。
全員の前にお茶を出すと、莉乃は窓を背にした椅子に座った。
「ところで、葉月ちゃんが私に会いに来た理由って何だったの?」
「実は莉乃さんに、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」怪訝そうに莉乃が訊いた。
葉月は父との関係をどう聞き出そうか悩んだ。
際どい問題なため、直球に言うのが躊躇われた。
考えた末に、「最近、父とはよく会ってるんですか?」と葉月は訊いた。
「前は長谷川先生の下で助教として働いていて、研究室も同じだったから、ほとんど毎日のように会ってたよ。でも、准教授になってから自分の研究室を持つようになって、そんなに会うこともなくなったかな」
やはり思っていた通りだった。莉乃は准教授に昇任したらしい。
あれから四年も経つのだから、職階を昇任していても、おかしくはないのかもしれない。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「あ……えっと……」葉月が言葉に詰まっていると、それを見かねた翔が「莉乃さんはお父さんと付き合ってるんですか?」と訊いた。
すると、一瞬にして時が止まったように場がシーンとした。
莉乃はポカンと口を開けている。
これまで興味がなさそうだった蓮見は、スマートフォンの操作をやめて、葉月たちの話に耳を傾け始めた。
「ちょっ、翔! 何普通に訊いてるの?」葉月が焦りながら小声で翔に言った。
「別にいいじゃないですか。こう言うことは手っ取り早く訊いた方がいいですよ」翔は平然とそう言った。
驚いていた莉乃はクスッと笑った後、「付き合ってないよ。もしかして、それを聞きにここまで来たの?」と言った。
「そうです」
葉月を置いて話を進める翔を見て、葉月は冷や冷やさせられた。
「そっか。長谷川先生から何か訊いたの?」
莉乃の問いかけに翔は首を横に振った。
「そうなんだ。てっきり私は長谷川先生が葉月ちゃんに、私のことを話したのかと思ったよ」見当違いだとわかると、莉乃は肩をすくめた。
「あの、それは……」葉月は莉乃に説明しようとしたが、翔が「違いますよ。葉月さんとお父
さんはもう四年も口を利いていませんからね」と間髪入れずに口を挟んできた。
それを聞いた莉乃は驚いた顔をして葉月を見た。
葉月がはっきりと言わないからなのか、翔は葉月を気にも留めず、葉月抜きで莉乃に向かって話をしている。
「四年も口を利いてないの? え、じゃあ、何で付き合ってるかなんて訊いたの?」
「四年前に河川敷でお父さんと莉乃さんがいるところを、偶然葉月さんが見たんですよ。それで二人がキスをしていたから、もしかして不倫してるんじゃないかって葉月さんが思って、それから二人はずっと口を利いてないらしいです。正確には、葉月さんがお父さんと話そうとしないんですけどね」
何かを話すことを諦めた葉月は、下を向きながら黙って、翔と莉乃の会話をただ聞いていた。
「━━あの時の、見てたんだ」
きっと莉乃は罪悪感を抱えているのだろう。
不倫相手の娘にその現場を見られていたのだから。
「ごめんなさい。キスをしたことは謝る。でも安心して、それ以上何もなかったから」莉乃がそう言うと、葉月は顔を上げて莉乃を見た。
「それ以上何もないって、どう言うことですか?」
翔が訊いた途端、切ない顔になった莉乃は「私の単なる片思いだったから」と言った。
「えっ……」葉月と翔、蓮見は驚きながら口を揃えて言った。
「片思いって……じゃあ、何であの時キスをしてたんですか?」今まで黙っていた葉月が莉乃の言うことに納得できず、前のめりになって言った。
「ちょっと長くなるけど、あの日のことをこれから話してもいいかな?」莉乃が落ち着いた顔で言った。
「お願いします」
「わかった。私と長谷川先生があの時河川敷にいたのは、告白するために私が長谷川先生を呼び出したからなんだ」
「告白するために? 何でわざわざ告白する場所を河川敷にしたんですか?」翔が訊いた。
「あの場所は、モモの散歩をしていた私に、憧れの長谷川先生が初めて話しかけてくれた場所だったの。だから、告白する時は絶対に河川敷でしようって、前々から決めてたんだ」
「へえ、何かロマンチックですね」
「でしょ? 私長谷川先生が来るまでずっと緊張してたんだけど、約束の時間ぴったりに長谷川先生が河川敷に現れて、姿を見た時には、ちゃんと言おうって覚悟を決めたの。それで川の前に座って、しばらく他愛のない話をしたんだ」
葉月は相手が父だと思って聞くと、複雑な気持ちになった。
話の途中で一度お茶を飲むと、莉乃は再び話し始めた。
「それでね、私もうすぐで准教授に昇任するって言う時だったから、今までのお礼もかねて、長谷川先生にネクタイをプレゼントしたの。そしたら長谷川先生が『ありがとう。大切にするよ』って素敵な笑顔で言ってくれたから、私感情が高ぶっちゃって、告白するなら今だって思ったんだ」
今まで莉乃の話を静かに聞いていた葉月と翔、蓮見は、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「私が『後少しで長谷川先生とあまり会えなくなるから、聞いてほしいことがあるんです』って言ったら、『何?』って言うから、『既婚者でお子さんがいることは知ってます。でも、学生の時から長谷川先生のことが、ずっと好きだったんです。二番目でいいから付き合ってください』って、ついに告白したの。そしたら、見事に断られちゃった」
莉乃は父に告白を断られたにもかかわらず、笑いながら話している。
「えー」と言った蓮見は、先程とは打って変わって興味津々で話を聞いている。
「『莉乃ちゃんのことは嫌いじゃないけど、僕は奥さんと子供のことを一番に考えているんだ。だから付き合うことはできない』って。それで私、どうしても諦めきれなくて、『じゃあキスだけでもしてください』ってお願いしたんだ。そしたら、最初は断られたんだけど、『キスしたら諦めますから』ってしつこく言ったら、長谷川先生が呆れた顔で、『わかった』って言うから、最後にキスしたの」
「いや、ちょっと待ってください。じゃあ、私があの時見たキスは、莉乃さんが父を諦めるために、お願いしたキスだったってことですか?」頭を抱えながら葉月が言った。
「そうだよ。私痛いよね。今思えば本当に恥ずかしい。何やってたんだろうって」顔を赤くした莉乃がそう言うと、蓮見が「やばい。莉乃っておじさんが好きだったの? 意外にも程があるよ」と言った。
驚くことがあまりにも多くて、葉月の頭は既にパンク寸前だった。そんな中、葉月は莉乃の言うことを何とか頭の中で整理した。
「でも、今はこの通り旦那もいるし、来年子供も生まれる予定だよ」莉乃は左手の薬指につけている結婚指輪を見せながら言った。
「結婚してたんですか⁉︎」
「何か、おめでとうございます」
とうとう頭が混乱してきた葉月は、茫然自失した。
「莉乃さん、念のため確認なんですけど、さっき言ってたことって本当なんですか?」
莉乃は葉月と翔に向かって、「今話したことは全て本当だよ。何も嘘はついてない」と言った。
焦ったり不安そうにしている様子はなく、あっけらかんとしている莉乃は、とても嘘をついているようには見えなかった。
その様子を見た翔は莉乃のことを信用したのか、「じゃあ、お父さんは不倫をしていたわけじゃなくて、本当に莉乃さんの完全な片思いだったってことなんですね」と言った。
「そうだよ。今思えば、若気の至りだったなって思う。まあ、そんなに若くもなかったけどね」
「そっかー。でも今は幸せそうだからいいじゃん」後悔をしている莉乃に蓮見が励ましの言葉をかけた。
「葉月さん、大丈夫ですか?」顔色が悪くなった葉月を見て、翔が言った。
翔の言葉で我に返った葉月は「うん、ごめん。大丈夫」と言った。
「よかったですね、葉月さん。これでお父さんの潔白が証明されましたよ」
まさか本当に誤解だとは思わず、葉月は何も言葉が出なかった。
莉乃と話し合ってよかったと思ったのと同時に、現在の父の容態を考えると焦る気持ちが生まれた。
「葉月ちゃん、ごめんね。私のせいで葉月ちゃんと長谷川先生に長い間迷惑をかけて……」莉乃は心苦しそうな顔をして言った。
「私が勝手に勘違いしただけですから、莉乃さんは気にしないでください。それに、話せばすぐに誤解は解けたのに、それをしなかった私が悪いんです」
「でも、振られたとは言え私が不倫をしようとしていたのは変わりないし、奥さんにも罪悪感しかないよ。本当にごめんね」
「過ぎたことを気にしても仕方ないですから、本当に気にしないでください」
「葉月ちゃん━━」
まさか真実が莉乃の片思いだったなんて思いもしなかった。
それなのに四年も不倫をしていると思い込んで、口も利かず父のことを避けていたなんて、これでは父に合わせる顔がない。
ふと壁にかけてある時計を見ると、午後二時を回っていた。父の手術が終わるまで後一時間しかなかった。
「もうすぐ手術が終わる時間だ」
「本当だ。そろそろ病院に戻りますか?」翔がそう訊くと葉月は頷いた。
「莉乃さん、いきなり大学に来てすみませんでした。今日はいろいろ話してくれてありがとうございます。蓮見ちゃん、お邪魔しちゃってごめんね」葉月は莉乃と蓮見を順に見てそう言うと、椅子から立ち上がった。
「別に。それより葉月さんのお父さん、早く良くなるといいですね」
「蓮見ちゃん……ありがとう」
今までずっと葉月に対して当たりが強かった蓮見が、ここに来てやっと優しい一面を見せてくれた気がした。
「でも、この前私が言ったことは変わってませんからね」蓮見が強気でそう言うと、葉月は苦笑した。
それを見た翔が「お前、何言ってるんだよ」と蓮見に呆れながら言った。
「翔くん、前にも言ったけど、葉月さんとばっかり会ってないで、たまには私とも遊んでね」蓮見は葉月に出す低い声とは反対に、可愛らしい高い声を出して翔に向かって言った。
「はいはい、わかったよ」
翔はそんな蓮見に対して軽くあしらっているように見えた。
「長谷川先生によろしくね。私もまたお見舞いに行くから」莉乃がそう言うと、葉月は「はい」と笑顔で返事をした。
葉月と翔は急いで大学を出ると、その場に通りかかったタクシーを止めて病院へと向かった。
☆
校門の前でタクシーから降りると、土曜日にもかかわらず、大学生と思われる人たちがちらほら歩いていた。
「ここですか?」翔は傘を持ちながら目の前にある校舎を見上げて言った。
「うん。翔はここの大学に来たことなかったっけ?」
「はい。ここってお父さんが働いている大学でもあるんですよね? 俺は一度も来たことなかったけど、建物が大きいな。やっぱり高校とは違う」
「そりゃそうだよ。莉乃さんは授業がなければ研究室にいると思うから、とりあえず研究室に行ってみよう」
葉月と翔は研究棟に入り、階段を使って三階まで登った。そして研究室の扉の前まで来ると、葉月は緊張からか、すぐにノックができずに立ち止まった。
そんな葉月を見て、不思議に思った翔が「どうかしたんですか?」と訊いた。
「久しぶりに莉乃さんに会うんだって思ったら、ちょっと緊張しちゃって」
「じゃあ俺が代わりにノックしましょうか?」
「いや、大丈夫」
葉月は気持ちを落ち着かせるために一度深呼吸をし、ようやく扉をノックした。
返事を待ったが、何も応答がない。
「授業に出てるのかな」翔が言った。
「そうかもしれないね」
どうやら莉乃は研究室にはいないことがわかった。
「どこの講義室で授業をしてるのか、教務課に行って訊いてみよう」
早速、葉月と翔は教務課に移動し、事務職員から莉乃の授業が行われている講義室を聞き出した。
講義室の前まで来ると、マイクで話しているのか莉乃の話し声が聞こえてきた。
後ろの扉をそっと開けて中に入ると、たくさんいる生徒の前で、莉乃が教壇に立ち、授業をしている様子が目に留まった。
久しぶりに見る莉乃の姿は、授業中と言うこともあり堂々としていて格好よく見える。
葉月と翔は授業の邪魔にならないように、なるべく目立たない一番後ろの空いている席に座った。
「あの先生が莉乃さんですか?」翔が小声で葉月に訊いた。
「そうだよ」葉月も小声で返した。
「俺、昔莉乃さんと何回も会ったことあると思うんですけど、あんまり記憶にないんですよね。それにしても、大学の授業って初めて出たから、何かワクワクします」
翔は楽しそうな顔をしている。
本来の目的を忘れていそうで、葉月は大丈夫かと少し不安になった。
「とりあえず授業が終わるまで待ってようか」葉月がそう言うと、翔は静かに頷いた。
しばらく授業を聞いていると、莉乃が「はい、これで授業は終了です。出席用紙を提出して帰ってね」と言った。
周囲が騒がしくなり始めた時、葉月が「翔、莉乃さんのところに行こう」と言い、席を立って莉乃のいる教壇まで歩いた。
「はい」と翔は返事をして、葉月の後について行った。
教壇の前までやって来ると、莉乃に質問をしている生徒が何人かいた。これでは話しかけられないと思い、生徒の対応が終わるのを待った。
長らく待った後、最後の一人がようやく離れ、莉乃は一人になる。
その隙を見計らい、葉月と翔は莉乃に近寄った。
「莉乃さん」葉月が呼んだ。
莉乃が葉月を見ると驚いた顔をして、「葉月ちゃん!」と言った。
「久しぶりですね」
「久しぶりー。どうしたの? 何でここにいるの?」莉乃は嬉しそうに言った。
「えっと、莉乃さんに会いに来ました」
「私に会いに? そうだ、長谷川先生は大丈夫なのかな? 落ち着いたらお見舞いに行こうと思ってるんだけど」
莉乃は父が心配なのか不安そうな顔をしている。
「今日の朝に検査を終えて、今は手術中です。手術が終わるまで時間があったから、ここに来ました」
「ええっ、そんな大事な時に、ここにいても大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。病院で待っていても特にやることはないし」
「そっか、それならいいけど。無事に手術が終わるといいね。そうだ、こんなところで話すのもなんだし、研究室に行って話そうよ」莉乃がそう言うと、葉月は頷いた。
講義室から研究室まで移動する途中で、莉乃と翔はお互いに挨拶を済ませ、世間話をしながら歩いた。
研究室まで着くと莉乃が扉を開けて、「どうぞ入って」と言った。
莉乃に案内されたのは、先程葉月と翔が訪ねた研究室と違う場所にあった。
以前、莉乃は父と同じ場所で働いていたはずだが、どうやら場所が変わったみたいだ。
そうなると、現在あの研究室は父だけが使っていて、ここは莉乃だけが使っている別の研究室と言うことになるのだろうか。
何があったんだろう、と葉月は疑問に思った。
そう言えば父が前に、『准教授になれば自分の研究室を持てる』と言っていたから、あれから莉乃は准教授に昇任したのかもしれない。
そんなことを考えながら中に入ると、部屋の中央にある大きなテーブルが葉月の目に入った。
壁一面には本棚が置かれ、本棚にはびっしりと本が並べられている。窓際にある机を見ると、資料やファイルが乱雑に積まれていた。
莉乃に促され、葉月と翔は椅子に腰掛ける。
すると、研究室の扉を叩く音が聞こえた。葉月と翔はその音を聞いて扉に目を向けた。
立ちながら資料を見ていた莉乃が「はーい」と返事をすると、「莉乃ー。入るよ」と誰かが言う声がしたのと同時に、扉が開いた。
「えっ⁉︎」
研究室に入って来た人物を見て、葉月と翔は思わず声を上げた。
なんと扉の前には信じられないことに蓮見がいた。
「えっ! どうして二人がここにいるの?」蓮見は驚いて目を見張りながら言った。
「それはこっちのセリフだよ」
「あれ、知り合い?」莉乃が不思議そうに訊くと、翔は「学校の友達です」と莉乃に言った。
「へー! そうなんだ。こんな珍しいこともあるんだね。祐奈、とりあえず入りなよ」莉乃がそう言うと、蓮見は中に入った。
初めて聞いたけど、祐奈と言うのは蓮見の名前らしい。
「私たちは莉乃さんに会いに来たんだけど、蓮見ちゃんはどうしてここに?」
「私も葉月さんたちと同じ理由です」蓮見はそう言うと椅子に座った。
「俺たちと同じって、莉乃さんと蓮見は一体どう言う関係なんだ?」
「うーん……何でもいいじゃん」
蓮見は言いたくなさそうにしている。何か人に言えない事情でもあるのだろうか。
「何で言わないんだよ」
蓮見が何も言わないことに葉月と翔が困惑していると、莉乃が「実はね、葉月ちゃんと翔くんだから言うけど、この子はモモの生まれ変わ……」と言いかけて、「ちょっとストップ!」と蓮見が話を遮った。
「言ったら駄目なの?」
「駄目に決まってるよ、そんなこと」蓮見が嫌がりながらそう言うと、「残念、もうほとんど聞こえてるよ」と翔が言った。
もう手遅れだと思ったのか、蓮見はショックを隠しきれないようだ。
「蓮見ちゃんって、モモの生まれ変わりなの?」
蓮見は仕方ないと言わんばかりの顔をしながら、「はい」と言った。
「えー! そうだったんだ。何で今まで言ってくれなかったの?」
「それは……言いたくなかったからに決まってるじゃないですか」
ショックを受けている蓮見を見て、慰めたいと思った葉月は「そっか。でも、翔もハルの生まれ変わりなんだよ」と言った。
「え……?」
「そうなの? ただの友達じゃなかったんだ」
蓮見と莉乃は口々に驚きの言葉を発した。
「はい。だから俺、生まれ変わった後に気になって、葉月さんに会いに行ったんですよ。会いに行ったって言っても、つい最近なんですけどね」
「じゃあ、祐奈と同じだね。祐奈も高校生になってから私に会いに来てくれたもんね」莉乃がそう言うと、蓮見は頷いた。
「びっくり。翔と蓮見ちゃんはお互いにハルとモモの生まれ変わりってことを、今までずっと知らなかったんだよね? だとしたら、今日それが知れてよかったね」
翔と蓮見はそれを聞くと顔を見合わせた。
蓮見は嬉しそうにしていたけど、翔は困惑したような顔をしていた。
「それなら、もっと早く知りたかったな」蓮見は後悔したように言った。
「まさか蓮見がモモの生まれ変わりだったなんて━━今まで全然気づかなかった。まあそれを知っても何かあるわけでもないし、別にいいんだけど」翔は素っ気なく言った。
「えー、ひどい。昔たくさん遊んだ仲じゃん」
「そうだよ。二人はすごい仲良かったんだよ。河川敷でよく追いかけっことかしたりしてね」
「そうそう。じゃれ合ったりとかして」
悲しそうに言った蓮見のために、葉月と莉乃がすかさずフォローを入れた。
「いや、て言うか、もうその話はいいじゃないですか。それより、お父さんの話をしましょうよ。莉乃さんはお父さんが倒れた時にその場にいたんですか?」
きまりが悪くなった翔は、突然、話を逸らした。
「あー、はぐらかされた」
「まあまあ蓮見ちゃん。それで、どうなんですか? 莉乃さん」
葉月は不満そうにしていた蓮見を宥めてから莉乃に訊いた。
「私は、長谷川先生が倒れた現場には居合わせていなかったんだけど、後でその場にいた先生から話を聞いた時は本当にびっくりしたよ。長谷川先生、大丈夫かなってすごい心配した」莉乃はそう言うと、冷蔵庫からお茶を取り出し、コップにお茶を入れている。
「そうだったんですね」
「うん。きっと生徒の中にも何人か心配してる子はいると思うな。長谷川先生は人気がある先生だし」
「へえ。お父さん、人気があるんですね」翔が意外そうに言う。
「そうだよ。長谷川先生の授業はいつも定員越えしてるからね。きっと授業が面白くて勉強になるからだろうな。私も見習わないとなっていつも思ってるよ」
莉乃は父のことを心酔しているように見えた。
「そっかー。お父さんってすごいんだな」
話を静かに聞いていた蓮見が「お父さんって、翔くんのお父さんのこと? 大学の先生なの?」と訊いた。
「違うよ。葉月さんのお父さんのことだよ」
「なんだ、そうだったんだ」蓮見は興味なさそうにそう言うと、スマートフォンを操作し始めた。
全員の前にお茶を出すと、莉乃は窓を背にした椅子に座った。
「ところで、葉月ちゃんが私に会いに来た理由って何だったの?」
「実は莉乃さんに、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」怪訝そうに莉乃が訊いた。
葉月は父との関係をどう聞き出そうか悩んだ。
際どい問題なため、直球に言うのが躊躇われた。
考えた末に、「最近、父とはよく会ってるんですか?」と葉月は訊いた。
「前は長谷川先生の下で助教として働いていて、研究室も同じだったから、ほとんど毎日のように会ってたよ。でも、准教授になってから自分の研究室を持つようになって、そんなに会うこともなくなったかな」
やはり思っていた通りだった。莉乃は准教授に昇任したらしい。
あれから四年も経つのだから、職階を昇任していても、おかしくはないのかもしれない。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「あ……えっと……」葉月が言葉に詰まっていると、それを見かねた翔が「莉乃さんはお父さんと付き合ってるんですか?」と訊いた。
すると、一瞬にして時が止まったように場がシーンとした。
莉乃はポカンと口を開けている。
これまで興味がなさそうだった蓮見は、スマートフォンの操作をやめて、葉月たちの話に耳を傾け始めた。
「ちょっ、翔! 何普通に訊いてるの?」葉月が焦りながら小声で翔に言った。
「別にいいじゃないですか。こう言うことは手っ取り早く訊いた方がいいですよ」翔は平然とそう言った。
驚いていた莉乃はクスッと笑った後、「付き合ってないよ。もしかして、それを聞きにここまで来たの?」と言った。
「そうです」
葉月を置いて話を進める翔を見て、葉月は冷や冷やさせられた。
「そっか。長谷川先生から何か訊いたの?」
莉乃の問いかけに翔は首を横に振った。
「そうなんだ。てっきり私は長谷川先生が葉月ちゃんに、私のことを話したのかと思ったよ」見当違いだとわかると、莉乃は肩をすくめた。
「あの、それは……」葉月は莉乃に説明しようとしたが、翔が「違いますよ。葉月さんとお父
さんはもう四年も口を利いていませんからね」と間髪入れずに口を挟んできた。
それを聞いた莉乃は驚いた顔をして葉月を見た。
葉月がはっきりと言わないからなのか、翔は葉月を気にも留めず、葉月抜きで莉乃に向かって話をしている。
「四年も口を利いてないの? え、じゃあ、何で付き合ってるかなんて訊いたの?」
「四年前に河川敷でお父さんと莉乃さんがいるところを、偶然葉月さんが見たんですよ。それで二人がキスをしていたから、もしかして不倫してるんじゃないかって葉月さんが思って、それから二人はずっと口を利いてないらしいです。正確には、葉月さんがお父さんと話そうとしないんですけどね」
何かを話すことを諦めた葉月は、下を向きながら黙って、翔と莉乃の会話をただ聞いていた。
「━━あの時の、見てたんだ」
きっと莉乃は罪悪感を抱えているのだろう。
不倫相手の娘にその現場を見られていたのだから。
「ごめんなさい。キスをしたことは謝る。でも安心して、それ以上何もなかったから」莉乃がそう言うと、葉月は顔を上げて莉乃を見た。
「それ以上何もないって、どう言うことですか?」
翔が訊いた途端、切ない顔になった莉乃は「私の単なる片思いだったから」と言った。
「えっ……」葉月と翔、蓮見は驚きながら口を揃えて言った。
「片思いって……じゃあ、何であの時キスをしてたんですか?」今まで黙っていた葉月が莉乃の言うことに納得できず、前のめりになって言った。
「ちょっと長くなるけど、あの日のことをこれから話してもいいかな?」莉乃が落ち着いた顔で言った。
「お願いします」
「わかった。私と長谷川先生があの時河川敷にいたのは、告白するために私が長谷川先生を呼び出したからなんだ」
「告白するために? 何でわざわざ告白する場所を河川敷にしたんですか?」翔が訊いた。
「あの場所は、モモの散歩をしていた私に、憧れの長谷川先生が初めて話しかけてくれた場所だったの。だから、告白する時は絶対に河川敷でしようって、前々から決めてたんだ」
「へえ、何かロマンチックですね」
「でしょ? 私長谷川先生が来るまでずっと緊張してたんだけど、約束の時間ぴったりに長谷川先生が河川敷に現れて、姿を見た時には、ちゃんと言おうって覚悟を決めたの。それで川の前に座って、しばらく他愛のない話をしたんだ」
葉月は相手が父だと思って聞くと、複雑な気持ちになった。
話の途中で一度お茶を飲むと、莉乃は再び話し始めた。
「それでね、私もうすぐで准教授に昇任するって言う時だったから、今までのお礼もかねて、長谷川先生にネクタイをプレゼントしたの。そしたら長谷川先生が『ありがとう。大切にするよ』って素敵な笑顔で言ってくれたから、私感情が高ぶっちゃって、告白するなら今だって思ったんだ」
今まで莉乃の話を静かに聞いていた葉月と翔、蓮見は、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「私が『後少しで長谷川先生とあまり会えなくなるから、聞いてほしいことがあるんです』って言ったら、『何?』って言うから、『既婚者でお子さんがいることは知ってます。でも、学生の時から長谷川先生のことが、ずっと好きだったんです。二番目でいいから付き合ってください』って、ついに告白したの。そしたら、見事に断られちゃった」
莉乃は父に告白を断られたにもかかわらず、笑いながら話している。
「えー」と言った蓮見は、先程とは打って変わって興味津々で話を聞いている。
「『莉乃ちゃんのことは嫌いじゃないけど、僕は奥さんと子供のことを一番に考えているんだ。だから付き合うことはできない』って。それで私、どうしても諦めきれなくて、『じゃあキスだけでもしてください』ってお願いしたんだ。そしたら、最初は断られたんだけど、『キスしたら諦めますから』ってしつこく言ったら、長谷川先生が呆れた顔で、『わかった』って言うから、最後にキスしたの」
「いや、ちょっと待ってください。じゃあ、私があの時見たキスは、莉乃さんが父を諦めるために、お願いしたキスだったってことですか?」頭を抱えながら葉月が言った。
「そうだよ。私痛いよね。今思えば本当に恥ずかしい。何やってたんだろうって」顔を赤くした莉乃がそう言うと、蓮見が「やばい。莉乃っておじさんが好きだったの? 意外にも程があるよ」と言った。
驚くことがあまりにも多くて、葉月の頭は既にパンク寸前だった。そんな中、葉月は莉乃の言うことを何とか頭の中で整理した。
「でも、今はこの通り旦那もいるし、来年子供も生まれる予定だよ」莉乃は左手の薬指につけている結婚指輪を見せながら言った。
「結婚してたんですか⁉︎」
「何か、おめでとうございます」
とうとう頭が混乱してきた葉月は、茫然自失した。
「莉乃さん、念のため確認なんですけど、さっき言ってたことって本当なんですか?」
莉乃は葉月と翔に向かって、「今話したことは全て本当だよ。何も嘘はついてない」と言った。
焦ったり不安そうにしている様子はなく、あっけらかんとしている莉乃は、とても嘘をついているようには見えなかった。
その様子を見た翔は莉乃のことを信用したのか、「じゃあ、お父さんは不倫をしていたわけじゃなくて、本当に莉乃さんの完全な片思いだったってことなんですね」と言った。
「そうだよ。今思えば、若気の至りだったなって思う。まあ、そんなに若くもなかったけどね」
「そっかー。でも今は幸せそうだからいいじゃん」後悔をしている莉乃に蓮見が励ましの言葉をかけた。
「葉月さん、大丈夫ですか?」顔色が悪くなった葉月を見て、翔が言った。
翔の言葉で我に返った葉月は「うん、ごめん。大丈夫」と言った。
「よかったですね、葉月さん。これでお父さんの潔白が証明されましたよ」
まさか本当に誤解だとは思わず、葉月は何も言葉が出なかった。
莉乃と話し合ってよかったと思ったのと同時に、現在の父の容態を考えると焦る気持ちが生まれた。
「葉月ちゃん、ごめんね。私のせいで葉月ちゃんと長谷川先生に長い間迷惑をかけて……」莉乃は心苦しそうな顔をして言った。
「私が勝手に勘違いしただけですから、莉乃さんは気にしないでください。それに、話せばすぐに誤解は解けたのに、それをしなかった私が悪いんです」
「でも、振られたとは言え私が不倫をしようとしていたのは変わりないし、奥さんにも罪悪感しかないよ。本当にごめんね」
「過ぎたことを気にしても仕方ないですから、本当に気にしないでください」
「葉月ちゃん━━」
まさか真実が莉乃の片思いだったなんて思いもしなかった。
それなのに四年も不倫をしていると思い込んで、口も利かず父のことを避けていたなんて、これでは父に合わせる顔がない。
ふと壁にかけてある時計を見ると、午後二時を回っていた。父の手術が終わるまで後一時間しかなかった。
「もうすぐ手術が終わる時間だ」
「本当だ。そろそろ病院に戻りますか?」翔がそう訊くと葉月は頷いた。
「莉乃さん、いきなり大学に来てすみませんでした。今日はいろいろ話してくれてありがとうございます。蓮見ちゃん、お邪魔しちゃってごめんね」葉月は莉乃と蓮見を順に見てそう言うと、椅子から立ち上がった。
「別に。それより葉月さんのお父さん、早く良くなるといいですね」
「蓮見ちゃん……ありがとう」
今までずっと葉月に対して当たりが強かった蓮見が、ここに来てやっと優しい一面を見せてくれた気がした。
「でも、この前私が言ったことは変わってませんからね」蓮見が強気でそう言うと、葉月は苦笑した。
それを見た翔が「お前、何言ってるんだよ」と蓮見に呆れながら言った。
「翔くん、前にも言ったけど、葉月さんとばっかり会ってないで、たまには私とも遊んでね」蓮見は葉月に出す低い声とは反対に、可愛らしい高い声を出して翔に向かって言った。
「はいはい、わかったよ」
翔はそんな蓮見に対して軽くあしらっているように見えた。
「長谷川先生によろしくね。私もまたお見舞いに行くから」莉乃がそう言うと、葉月は「はい」と笑顔で返事をした。
葉月と翔は急いで大学を出ると、その場に通りかかったタクシーを止めて病院へと向かった。
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