めぐる月日のとおまわり
電子決裁でお会計はすぐに終わり、彼はわたしの目の前でコーヒーの提供を待っている。
したしげな笑顔にも特段の意味はなかったようで、携帯に目を落としてこちらは見ない。
「タチの悪い……」
舌打ちにも似たつぶやきも彼には届かず、まもなく運ばれてきたコーヒーを見て携帯をポケットにしまった。
「お待たせ致しました」
「どうも」
ふと、彼のスーツの左襟に、ちいさな花弁のひとひらを見た。
わたしの視線をたどって、彼も襟を手で探る。
「あ、桜だ」
わたしに向けて広げられた手のひらには、うすいピンクいろの花びらが乗っていた。
「すぐそこの駐車場脇に、一本だけ桜があるんです」
「そうですか」
押しつけるように差し出すので、わたしが手を出すと、その花びらがひらりと乗せられた。
もう一度笑って、彼は同僚の待つテーブルへと向かう。
広げていた書類を寄せてトレイを置き、コーヒーはブラックで口に運んだ。
捨てろと言われたのだろうと、カウンターの下にあるゴミ箱に、一度持っていって、なんとなくエプロンのポケットにしまう。
「ねえ、さっき何か言わなかった?」
寝起きみたいに一瞬戸惑って、それから現実を思い出してうなずいた。
「うん。本じゃないけど、コピー持ってる」
「ウッソ!! なんで!?」
凛ちゃんの大声に、そっと客席を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。
彼も真剣に書類を見ながらコーヒーを飲んでいて、ふり返ることはない。
あれではオリジナルブレンドだろうがマンデリン・ブレンドだろうが、味なんてわからないだろう。
「穴場狙って県立図書館から借りたの。必要なところコピーして、本は返却しちゃったけど」
「貸して貸してー! コピーさせてー!」
「いいよ。明日渡す」
「ああー、ほっとしたー。ちょっとミルクの在庫取りに行ってくる」
「はい。お願いします」
わたしはカウンター前の清掃と補充に回った。
すぐ後ろの席で、彼の沈んだ声がする。
「二日徹夜してやっとできた資料、秋葉先生の承認下りたあとに、班長があちこち直しちゃって……」
「またあの班長か……」
「事前に班長のチェック、受けなかったんですか?」
「ちゃんとチェックは受けたけど、中身見ないでサインしたんだろうな」
「秋葉先生がOK出したんだったら、そのままいかないといけないだろ」
彼はイスにどっかりともたれかかった。
「元の資料使うにしても、もう一度先生の承認取り直すにしても、どっちみちもう一回作らないと。あーあ、また徹夜かな。……このコーヒーうまいですね」
汚れひとつないカウンターを、わたしは何度も何度も拭いた。
コーヒーの味わいには気づいても、彼はわたしには気づかない。
このガムシロップやコーヒークリームを、頭からぶちまけてやりたいと思ったら、タオルを持つ手に力が入った。
したしげな笑顔にも特段の意味はなかったようで、携帯に目を落としてこちらは見ない。
「タチの悪い……」
舌打ちにも似たつぶやきも彼には届かず、まもなく運ばれてきたコーヒーを見て携帯をポケットにしまった。
「お待たせ致しました」
「どうも」
ふと、彼のスーツの左襟に、ちいさな花弁のひとひらを見た。
わたしの視線をたどって、彼も襟を手で探る。
「あ、桜だ」
わたしに向けて広げられた手のひらには、うすいピンクいろの花びらが乗っていた。
「すぐそこの駐車場脇に、一本だけ桜があるんです」
「そうですか」
押しつけるように差し出すので、わたしが手を出すと、その花びらがひらりと乗せられた。
もう一度笑って、彼は同僚の待つテーブルへと向かう。
広げていた書類を寄せてトレイを置き、コーヒーはブラックで口に運んだ。
捨てろと言われたのだろうと、カウンターの下にあるゴミ箱に、一度持っていって、なんとなくエプロンのポケットにしまう。
「ねえ、さっき何か言わなかった?」
寝起きみたいに一瞬戸惑って、それから現実を思い出してうなずいた。
「うん。本じゃないけど、コピー持ってる」
「ウッソ!! なんで!?」
凛ちゃんの大声に、そっと客席を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。
彼も真剣に書類を見ながらコーヒーを飲んでいて、ふり返ることはない。
あれではオリジナルブレンドだろうがマンデリン・ブレンドだろうが、味なんてわからないだろう。
「穴場狙って県立図書館から借りたの。必要なところコピーして、本は返却しちゃったけど」
「貸して貸してー! コピーさせてー!」
「いいよ。明日渡す」
「ああー、ほっとしたー。ちょっとミルクの在庫取りに行ってくる」
「はい。お願いします」
わたしはカウンター前の清掃と補充に回った。
すぐ後ろの席で、彼の沈んだ声がする。
「二日徹夜してやっとできた資料、秋葉先生の承認下りたあとに、班長があちこち直しちゃって……」
「またあの班長か……」
「事前に班長のチェック、受けなかったんですか?」
「ちゃんとチェックは受けたけど、中身見ないでサインしたんだろうな」
「秋葉先生がOK出したんだったら、そのままいかないといけないだろ」
彼はイスにどっかりともたれかかった。
「元の資料使うにしても、もう一度先生の承認取り直すにしても、どっちみちもう一回作らないと。あーあ、また徹夜かな。……このコーヒーうまいですね」
汚れひとつないカウンターを、わたしは何度も何度も拭いた。
コーヒーの味わいには気づいても、彼はわたしには気づかない。
このガムシロップやコーヒークリームを、頭からぶちまけてやりたいと思ったら、タオルを持つ手に力が入った。