めぐる月日のとおまわり
八月 炎天下のテリトリー
自転車が盗まれた。
鍵はかけていたけれど、だいぶ古い自転車だったから、「金具がゆるんでいたのかもしれない」とか「ピッキングでかんたんに開く」とか、友達は言った。
真実はわからない。
仕方ないのでその日は大学からバスで帰って、警察に盗難届けも出したが、二日経っても音沙汰がない。
アルバイト先であるコーヒーショップを十六時に上がって、わたしはバス停までたらたらと歩いた。
時計を見なければ感覚が狂うほど、空は青く晴れ渡り、太陽は耳鳴りがしそうなほどにつよい。
手の中では、店で買った夏季限定ピンクスカッシュが、すでにびしょびしょと汗をかいている。
横断歩道を渡り、バス停を目前にして、わたしは月極駐車場で足を止めた。
一角にあるメタリックブラウンの車の前に立ち、ピンクスカッシュをひと口飲む。
この車の持ち主は、もうひとブロック先のビルで働いている。
わたしの働くコーヒーショップを「歩いて行くにはちょっと遠いし、車で行くには近すぎる」と言っていたが、確かにたかだかコーヒー一杯のために、ひとブロック余計に往復するのも、車を動かすのも面倒だ。
それなのに彼は、週に二~三度は仕事帰りに店に寄る。
五分に満たない時間、カウンター越しにわたしと雑談して、そのまま帰ることもあれば、一時間ほど店内で仕事をすることもある。
「来ないでください」と言う権利は、わたしにはない。
車の助手席は、かわいらしい水いろのカメのぬいぐるみが陣取っている。
くりくりとした目で運転席を見つめるそれは、きっと彼女の持ち物なのだろう。
こんな風に、彼を待つひとがいる。
足早に帰る日は、彼女のところへ行くのだろうと思ってしまう。
来なければ来ないで、入り口ばかりが気になる。
そんな毎日は、鈍痛に似て消耗が激しい。
頭がぼうっとする。
車のボンネットには真夏の太陽が、セピア写真のように映り込んでいる。
ふと、このピンクスカッシュをぶちまけたら、ジュウッと音がするだろうか、と思った。
水分が蒸発したら糖分がベタベタとこびりついて、アリがたかるかもしれない。
わたしは上蓋を取ったカップを、ボンネットの上に持っていった。
中身より先に、カップの外側に浮かんだ水分が落ちて、セピアの空の上をするする滑って消えた。
一瞬激しい風が吹いて、駐車場脇の木々が大きな音を立てた。
つよい日差しを受ける葉は、すべて同じような濃い緑いろだが、その中のどれか一本は桜であるらしい。
店からたったひとブロックしか離れていないのに、わたしはその桜の花を見たことがない。
どんなに近くても、ご縁のないものはあるのだ。
数秒ためらって、上蓋を元に戻した。
ひと口飲んだピンクスカッシュは、ベリーの風味もだいぶうすまって、炭酸も弱くなっている。
バス停に着いても、まだバスの姿は見えない。
時間を確認するとあと七分後の予定らしい。
屋根のないバス停は、日差しを遮るものが何もない。逃げ場のない素肌が痛かった。
ピンクスカッシュ同様、わたしの身体も汗でびしょびしょに濡れている。
道路の先がゆらゆら歪んで見える。
バスはまだ来ない。
もう、このアルバイトは辞めようと思う。