カラダから始まる政略結婚~一夜限りのはずが、若旦那と夫婦の契りを交わしました~
襟元に手を伸ばされ、びくりとした。少しだけ屈んだ彼は、丁寧に半衿を整えてくれる。
距離を詰めた彼からほのかに甘い香水の匂いがして、胸が鳴った。
「良い着物ですね」
「これは母から譲り受けたものなんです」
「へぇ、それは素敵だ。大切に手入れをされているのが分かります。綺麗な桃で、とても好きだな」
名前を呼ばれたわけではないのに、ドキンとした。襟の乱れを直した彼は、離れるとにこやかに目を細める。
「あっ、ありがとうございます」
「いいえ。では」
交わした会話はたった数回。
それでも、なぜだかそのやりとりが特別に思えて、遠ざかる背中を目で追ってしまう。
穏やかで誠実そうな人だった。あんな人と恋ができたら……ううん、そんな都合のいい話があるわけない。
でも、もしも許されるのなら、一度でいいから好きになった人と燃えるような恋がしたい。恋情に身を任せて、心から愛する人の胸に飛び込みたい。
「本当、夢みたいな願い事ね」
ぽつりと呟いた独り言が、やけにむなしかった。