うそつきアヤとカワウソのミャア
焼ける家から、父が子供を抱いて飛び出す。
「要救護者を確保!」
離れて見守っていた人垣から、歓声が上がった。
感謝のつもりか、抱えられた子が毛だらけの手で父の胸をポンと叩いた。
「ありがとう、ぎゅふっ!」
笑うカワウソの面妖さに、布団を跳ね上げて身を起こす。
なんて夢だ。
起こされた原因は、即座に判明した。
ミャアが隣で丸くなり、幸せそうにギュフギュフと寝言を発している。
肩甲骨の辺りが寝違えたように突っ張るのは、寝巻に着替える手間さえ惜しんだせいだろう。
部屋の明かりも点けっぱなしで、枕元の目覚まし時計もハッキリと見えた。
午前五時五十分、二日連続の早起きだが、思ったより熟睡したみたいだ。
寝直すには眠気が飛んでしまい、半開きの瞼越しにぼうっと天井を眺めて過ごす。
半時間くらいその体勢でじっとしていると、ミャア以外が立てる物音が、思いのほか明瞭に響いてきた。
洗面所の水が流れる音、廊下を歩く忙しないリズム。
オーブンがチンっと鳴ってから十分ほどして、スイッチを弾き照明を消す音まで聞き分けられた。
母が帰って来るのは、昨夜よりも遅いはず。
週末の出勤は、大体そう。
夕食が必要なのか聞きそびれたと考えつつ、扉の閉まる音で、また家には自分一人になったことを知る。
一人と一匹、だったか。
考えがまとまらない父のことは脇へ除け、眠るカワウソへ意識を向けた。
昨夜は聞き流してしまったが、ミャアは私の事情に随分と通じているようだ。
物の怪だからそんなもの、と納得しそうではあるけれど、来歴の謎は余計に深まったとも感じる。
いつから私を見てきたのだろう。
私と母の喧嘩を仲裁して、このカワウソに何か益があるのか。
拭い切れない疑念が、むくむくと私の中で膨らむ。
ミャアを起こさないように注意して、ベッドの先に手を伸ばし、スマホをケーブルから抜いて引き寄せた。
分からないことは検索、高校生の基本だ。
ブラウザであちらこちらのサイトを閲覧し、ひとしきり調べ物を進めた頃、ミャアが大あくびと共に目を覚ました。
「おはよ、アヤちゃん」
「ん。いい加減、着替えないとね」
昼には勝巳に会うというのに、髪はベタつくし、爪も汚れている。
シャワーを浴びようと、ようやく私も動くことにした。
着替えを出して浴室へ向かい、外出用の私服に着替え終わったのが九時過ぎ。
朝ごはんに目玉焼きを作ろうとキッチンへ入ると、食卓に置かれたメモ書きが目に入った。
書類の裏側にサインペンでメッセージを残したのは、母の他に有り得ない。
私が必ず読むように、席と向きも合わせて、一語のみ書かれていた。
“ごめんなさい”
反射的に紙を握り潰し、部屋の隅にあるごみ箱へ放り投げる。
的を外した紙球は、床を転がってテーブルの下へ潜り込んだ。
朝になって冷めた頭で考えれば、母への怒りはさほど感じない。
どうでもいい、くだらない、そんなネガティブな思考ばかりが渦巻く。
自暴自棄と言われそうな自分が腹立たしく、ただただ気が立って、謝罪を受け入れることを拒絶した。
八つ当たりに近いと、理屈では分かっているのだが。
珍しく寡黙なミャアへ、これもとばっちりであろう嫌味をぶつける。
「また朝ごはん食べたいの? 気楽でいいね、カワウソは」
「食べないよ」
「へえ、我慢するんだ」
「ボクがいると、気が散るでしょ。一人でゆっくり食べなよ」
ミャアにまで、気を回されるとは。
私の不機嫌さを敬遠したとも考えられるけれど、ペラペラ喋りたくないのは事実だ。
トーストの上に目玉焼きを乗せ、オレンジジュースをなみなみとグラスへ注ぐ。
何日と続けた独りの朝食が、今朝はパンを噛む音が気になるほど、やけに静かだった。
「要救護者を確保!」
離れて見守っていた人垣から、歓声が上がった。
感謝のつもりか、抱えられた子が毛だらけの手で父の胸をポンと叩いた。
「ありがとう、ぎゅふっ!」
笑うカワウソの面妖さに、布団を跳ね上げて身を起こす。
なんて夢だ。
起こされた原因は、即座に判明した。
ミャアが隣で丸くなり、幸せそうにギュフギュフと寝言を発している。
肩甲骨の辺りが寝違えたように突っ張るのは、寝巻に着替える手間さえ惜しんだせいだろう。
部屋の明かりも点けっぱなしで、枕元の目覚まし時計もハッキリと見えた。
午前五時五十分、二日連続の早起きだが、思ったより熟睡したみたいだ。
寝直すには眠気が飛んでしまい、半開きの瞼越しにぼうっと天井を眺めて過ごす。
半時間くらいその体勢でじっとしていると、ミャア以外が立てる物音が、思いのほか明瞭に響いてきた。
洗面所の水が流れる音、廊下を歩く忙しないリズム。
オーブンがチンっと鳴ってから十分ほどして、スイッチを弾き照明を消す音まで聞き分けられた。
母が帰って来るのは、昨夜よりも遅いはず。
週末の出勤は、大体そう。
夕食が必要なのか聞きそびれたと考えつつ、扉の閉まる音で、また家には自分一人になったことを知る。
一人と一匹、だったか。
考えがまとまらない父のことは脇へ除け、眠るカワウソへ意識を向けた。
昨夜は聞き流してしまったが、ミャアは私の事情に随分と通じているようだ。
物の怪だからそんなもの、と納得しそうではあるけれど、来歴の謎は余計に深まったとも感じる。
いつから私を見てきたのだろう。
私と母の喧嘩を仲裁して、このカワウソに何か益があるのか。
拭い切れない疑念が、むくむくと私の中で膨らむ。
ミャアを起こさないように注意して、ベッドの先に手を伸ばし、スマホをケーブルから抜いて引き寄せた。
分からないことは検索、高校生の基本だ。
ブラウザであちらこちらのサイトを閲覧し、ひとしきり調べ物を進めた頃、ミャアが大あくびと共に目を覚ました。
「おはよ、アヤちゃん」
「ん。いい加減、着替えないとね」
昼には勝巳に会うというのに、髪はベタつくし、爪も汚れている。
シャワーを浴びようと、ようやく私も動くことにした。
着替えを出して浴室へ向かい、外出用の私服に着替え終わったのが九時過ぎ。
朝ごはんに目玉焼きを作ろうとキッチンへ入ると、食卓に置かれたメモ書きが目に入った。
書類の裏側にサインペンでメッセージを残したのは、母の他に有り得ない。
私が必ず読むように、席と向きも合わせて、一語のみ書かれていた。
“ごめんなさい”
反射的に紙を握り潰し、部屋の隅にあるごみ箱へ放り投げる。
的を外した紙球は、床を転がってテーブルの下へ潜り込んだ。
朝になって冷めた頭で考えれば、母への怒りはさほど感じない。
どうでもいい、くだらない、そんなネガティブな思考ばかりが渦巻く。
自暴自棄と言われそうな自分が腹立たしく、ただただ気が立って、謝罪を受け入れることを拒絶した。
八つ当たりに近いと、理屈では分かっているのだが。
珍しく寡黙なミャアへ、これもとばっちりであろう嫌味をぶつける。
「また朝ごはん食べたいの? 気楽でいいね、カワウソは」
「食べないよ」
「へえ、我慢するんだ」
「ボクがいると、気が散るでしょ。一人でゆっくり食べなよ」
ミャアにまで、気を回されるとは。
私の不機嫌さを敬遠したとも考えられるけれど、ペラペラ喋りたくないのは事実だ。
トーストの上に目玉焼きを乗せ、オレンジジュースをなみなみとグラスへ注ぐ。
何日と続けた独りの朝食が、今朝はパンを噛む音が気になるほど、やけに静かだった。