ロスト・ヘヴン
 濡れた制服を脱ぎ捨てて、父親が遺したシャツとジャージを履いた。この部屋に少女の為の洋服は制服だけだ。

 他には何もいらなかった。
 父親の写真以外ない部屋で、少女は力なく座り込む。もうずっと、こんな風に生活していた。

 最愛の人が亡くなったのは、半年前のこと。
 重い病だった。直る見込みがない病魔に蝕まれても、笑顔はいつも通り優しく温かかった。

 自分の名前を呼ぶ声が、今も耳の奥で響いている。
 柔らかく微笑む人だった。

 彼の為なら何でも出来ると思った。

 にゃあ。

「ごめんね。今日は、食べる物がないの」

 いつの間に入って来ていたのか。黒猫が玄関で控えめに鳴いた。
 左右の目の色が違う猫。左目だけが、廊下の明かりに反射して金色に光る。

「今日は雨だから、嫌な気分ね」

 彼がいなくなったのも、降り続く雨がやまない春のことだった。どんなに泣いても叫んでも、もう戻っては来ない。

 半年前に、涙は枯れ果ててしまった。

 黒猫はもう一度鳴くと、諦めたのか長い尻尾を揺らしながら部屋を出て行く。その姿を視界の隅で捕らえながら、少女は尚も写真を見詰め続けた。


 生きている意味なんてないと何度も思いながら、今も少女は死ねずにいる。

 ここにいて生活を続ける理由はたった一つ。


 約束をしたからだ。


 ――ちゃんと、僕がいなくなっても幸せに生きて行くんだよ。


 残酷とも言える言葉だったけれど。
 約束したことは、守りたかった。きっと彼は天国で見届けてくれるから。

 幸せになることは難しいかも知れない。


 でも、今は唯生きていようと思う。
 最後の約束を守りたかった。
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