ロスト・ヘヴン
 唯の酔っ払いだったら、少女は冷めた目をして通り過ぎただろう。けれど、足を止めざるを得なかった。

「血が……」

 ごみ置き場に足を投げ出して前屈みに座る男の、季節外れのトレンチコートが血で濡れていた。明らかに生命の危機と分かる。

 さすがの少女も、慌てて男の元へ駆け寄った。生きることに意味は見出せなくとも、心が冷え切っている訳ではない。

「大丈夫ですか?」

 プリーツスカートの裾が濡れるのも構わずに、少女は男の傍に屈み込んだ。傘を傾けて、顔を覗き込む。

 青白い頬。色を失くした唇。
 大きな掌は、自分の右太ももを押さえていた。出血はそこかららしい。

「今、救急車を呼ぶから」

 少女は今時の高校生にしては珍しく、携帯電話を持っていなかった。大通りに出れば、信号の手前に公衆電話がある。
 多分、足なら致命傷にはなっていない筈だ。けれど、あの出血の酷さが不安だった。失血死と言うこともあり得る。

 学校指定の鞄の中からハンカチを取り出すと、男の太ももに乗せた。

「少し、待っていて。あっちまで行って電話して来るから」


 立ち上がろうとした時だった。


 血に濡れた手が少女へと伸びる。力のないその指先が、僅かに少女の白い手を掠めた。
 振り返ると、男と視線が合った。

 苦しそうに息を吐きながら、彼は言う。

「……いい。人は……呼ばないで、くれ」

 ほとんど吐息に近い声で言ったその言葉に、少女は動けなくなった。救急車を呼ばなければと思うのに、力がないながらも必死な視線に抗うことが出来ない。

「だって、死んでしまう」

「良い。大丈夫だから……」

 懇願する響きの声に、少女は諦めた。傘を投げ出して男の元へ屈むと、止血をする為に自分のハンカチを傷の上に縛り付ける。
 小さなうめき声など、聞きはしなかった。


 少女は、手負いの獣を保護する心持ちで自分の出来る処置を施す。もうすぐ、人通りの多い時間になる。
 その前に。


 少女の黒髪が濡れる。男のトレンチコートが血で染まる。


 これが、彼ら2人の出会いだった。
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